分心づかず、野蛮な権力で、人々の命と生活とその発言とが奪われることの一表現であることを自覚しないで、作家は奴隷の言葉で語りはじめつつ、次第に自身の運命をも奴隷の境遇に導かれて行ったのであった。
一九三四年(昭和九年)頃から随筆文学が流行して内田百間の「百鬼園随筆」、森田たまの「もめん随筆」などが盛んに流行した。
不安の文学という声に添うて現れた現代文学におけるこの随筆流行、随筆的傾向の擡頭は深い時代の陰翳を語っている。婦人作家の問題に直接ふれて注目をひかれるのは、この時期に入ると、婦人が文学を生み出して行く生活環境に対し、この随筆的気分が極めて微妙に影響しはじめたことである。
林芙美子や宇野千代が、自身の文学出発の条件として、計らざる幸運、便宜と計量したのは、自分が女性であるとともに、放浪した女性であり、給仕女であった女性であるということであった。そのような下積みの環境にある女性の、その暮しの流れをそれぞれの階調で描き出すところに、文学的一歩のよりどころは置かれた。そこには従来の所謂教養ある婦人作家のかたくるしさや、令嬢気質、奥様気質とはちがった、わけしり、苦労にぬれた女の智慧、風趣などが特色として現わされたのであった。
ところが「もめん随筆」のあらわれる頃から、婦人と文学の社会的な関係が、云わば逆転した形をとりはじめた。文学というものは婦人の生活との結びつきで、再び一種貴族趣味の、或はげてものめいた趣味、粉飾となり始めたのであった。「もめん随筆」などはその点で典型をなした。女心というものの扱いかたも、或る種の男の世界を対象として、そこで評価される「女心」のままにポーズして行っていて、天然欠くるところない女に生れながら女の生地を失って、「女形」の模倣するような卑屈に堕した。
神近市子というようなひとまで、この頃書いた故郷の正月を語る文章の中では、故郷の旧家の大仕掛な台処のざわめきの様を、愛着とほこりとをもって描くようになった。『青鞜』の日、若いこの婦人評論家は、その旧家の保守の伝統と重さに反抗して上京もし、生活の幾波瀾をも重ねて来たのであったのに。
岡本かの子が、多摩の旧家の※[#「草かんむり/(月+曷)」、第3水準1−91−26]たきめの童としての自身を描きはじめたのが、この時代からであることも意味ふかい。
「不安の文学」が、不安にも徹しないで、やがて
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