来た。が、その人々は、小林の家をとりまいていた杉並警察署のものにつかまえられて、留置場へ入れられた。葬儀さえ、友人たちの手によってはさせられなかった。そのとき、友人代表として世話をした古い仲間江口渙は、あとで検挙されたとき、小林の葬儀委員長をしたことについて、咎められるという有様であった。窪川稲子が、当時新聞に書いた「二月二十日のあと」という短い文章は、仲間たちの憤りと悲しみと、小林の老いた母の歎きの姿を描き出して、感動ふかいものである。
 プロレタリア文学の運動は、こうして破壊され、数年来、この文学運動に反対して闘って来た一部の作家たちは、ひそかな勝利の感情を味ったかもしれない。しかし、日本の文学全体を展望したとき、プロレタリア文学がそういう過程で壊滅させられた事実は、文学にとってきわめて不吉な前兆となった。倒されたのは、プロレタリア文学ばかりではなかったのであったから。日本のおくれた近代性のなかで、ともかく世界的水準を目ざしつつ、日本文学そのものの客観的進展に努めて来ていたのは、プロレタリア文学運動であった。日本の人民の自主性と文化の自主性を願って絶対主義支配に抵抗し、文学運動をたたかっていた、そのプロレタリア文学が存在されなくなったということは、とりも直さず、日本文学の客観的な防衛力が文学そのものの領域から奪われたことを意味した。
 今日かえりみれば、それからのちひきつづいて文学の世界に渾沌をもち来すばかりであった文学理論、批評の消滅の現象こそ、一九三七年七月中国に対する侵略戦がはじまってから、日本の殆どすべての作家、詩人が、軍事目的のために動員され、文芸家協会は文学報国会となって、軍報道部情報局の分店となり、日本の文学は、文学そのものとして崩壊しなければならないきっかけとなったのであった。
 けれども、当時、このことは見とおされなかった。その文学理論を中心として対立していたプロレタリア作家と既成の作家、そればかりかプロレタリア文学の運動に参加していた人たち自身の間にさえ、プロレタリア文学運動の終熄は、プロレタリア文学に携っている一部の人々への弾圧、反対者にとって小気味よい光景として見られたのであった。そして、一九三二年の春以後は、すべての文学理論から、社会における現実である階級性を抹殺して語られることになった。この転化が単に文学と階級との問題ではないことに十
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