らかに見られるものである。「放浪記」が書かれた当時の心持は「仕事してゆく自信、生きてゆく自信がなくなり」と言われている。女としてまた芸術家として自分の一切への絶望が感じられていたこの作者のこころもちも、昭和十年に当時を回顧してかかれた文章のなかでは「プロレタリア文学は益々さかんでした。私は、孤立無援の状態で」と、その対比のうちに何ごとかを含めるように言われていることも注目される。自分の仕事にも生存にも自信を失って海外旅行に出たこの作家が、二三年のうちには、「自分の感覚ばかりが逞しくなったが」日本の若い作家に軽い失望を感じ、「近年ロマン主義だとか能動精神だとか行動主義だとか言われるようになったけれども、誰も彼も詩を探しているのではないだろうかと思ったりもします」「日本の今の文学から消えているのは詩脈ではないかと思ったりしました。詩のない世界に何の文学ぞやと思ったりしました」と、自分の文学的世界を確信した。ひとたびは絶望した自身の詩性への自信が、どこから甦り何をよりどころとして再び獲られたのであったろう。どっさり新聞雑誌に連載した長い小説があるこの作者に、小説というものが「詩で言えば十行で書き尽せるような情熱を、湯をさますようにして五十枚にも伸ばしてかく小説体というもの」として理解されていることも、印象づけられる事実である。
一人の若い女として、生きるためには精神に肉体に一方ならず努力して来たこの作者が、「女の日記」では京都の物持ちの五十男を描いた。その小柴という人物に水石を愛玩させ、小間使として入った伊乃という娘を愛させ、大彦からの衣類をおくらせている。そしてその長篇の結語はその小柴と結婚してもよいと思う伊乃のモラルとして「世の常の道徳を蹴とばてしまって、わたしはわたしの生活をきりひらいてゆきたい。きっと。――」とかかれているということも、何かを考えさせる。果して、そこに、世の常のモラルと分別をけとばす何かの新しい人生価値があるのだろうか。「小柴という人物は、作者の私の永遠の男性であるかもしれない」と創作ノートにかかれている。「放浪記」にあった自然発生の一種の揮発性の匂いは世路の向上の間にぬけた。いつか富裕な数奇をこのむ生活雰囲気へ順応し、今はこの作者の現実にとってはただ文学の上の持ち味としての約束にしかすぎない乏しさ、いじらしさ、虚無感だのが、必然のないとり合わせ
前へ
次へ
全185ページ中123ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング