けよう」と。
一九三三年頃、左翼への暴圧の余波をおそれて『女人芸術』が組織がえをして『輝ク』となるまで、この雑誌は、広い範囲での婦人の急進性の中心となった。『輝ク』はその後戦争進行につれて遂に軍部に御用をつとめる一小団体となり、発刊当時の意気は全くあらぬ方に消耗されて、長谷川時雨の死去とともに廃刊された。
この『女人芸術』に林芙美子の「放浪記」が掲載された。画家の良人の浴衣さえ売りつくして、広い廃園の中の家で、一夏を紅い海水着で暮しているという生活であった。同じ酒屋の二階に間借りしたりしていた「平林たい子さんはその時はそうそうたる作家になっていました」と「私の履歴」にかかれている。
アナーキスティックなその日その日の暮しぶりとしても、平林たい子と林芙美子との間には、その色調に著しい相異がある。「放浪記」は、「施療室にて」一巻におさめられている平林たい子の初期の作品とは全く別種のものであった。そこには経済の上にも恋愛の上にも見とおしと計画のない生活なりに、抵抗もなくその日々の生活と気分とをうちまかせている一人の若い女が、かこち、歎き、憤り、舌を出し、そして嗤う姿が描かれている。「放浪記」のなかには、木賃宿の住居、露店のあきない、薬品店での働き、セルロイド女工としての生活、牛肉屋の女中、女給、転々とする生活からの呼吸が、或る時は「地球よパンパンとまっぷたつに割れてしまえ――と呶鳴ったところで私は一匹の烏猫」という表現となり、或るところでは、「私は男にとても甘い女です。そんな言葉を聞くとサメザメと涙をこぼして、では街に出ましょうか。」云々という調子をもって語られている。「いったい何時の日には、私が何千円、何百円、何拾円、たった一人のお母さんに送ってあげる事が出来るのだろうか、私を可愛がって下さる行商をしてお母さんを養っている気の毒なお義父さんを慰さめてあげることが出来るのだろうか! 男に放浪し職業に放浪する私。」
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空と風と
河と樹と
みんな秋の種子
流れて 飛んで
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「うんとお金持ちになりますよ、人はもうおそろしくて信じられないから、一人でうんと身を粉にして働きます」
「放浪記」は、その後数年間に発表された夥しい作品の素材的な貯蔵所でもあるし、作家として作品の世界に盛ってゆくその人としての雰囲気の諸要素、気分的特徴も明
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