、作家として、窪川稲子のほかには松田解子、のちに参加した中條百合子(宮本)などの婦人作家があった。一九三一年には、日本プロレタリア作家同盟のなかに、特に婦人の文学活動に対する助力の組織がつくられ、工場や農村その他の諸経営、兵営などの文学サークルの活動とともに、組織的に、勤労民衆の文化の一面として、最も端緒的な婦人の文学能力も見守られ育てられはじめた。小坂たき子などが試作を発表したのもこの頃であり、壺井栄がまだ自分の語りかたが分らないままに、リアリスティックな「財布」その他一つ二つの作品を書いたのもそのすこし後のことであった。「ローザ・ルクセンブルグの手紙」の訳者松井圭子も、プロレタリア作家の団体に属していた。
演劇の面には、小山内薫時代からの山本安英などのほかに、原泉子をはじめ、数多い女優が現れ、声楽家関鑑子は、演出家小野宮吉と結婚して、次第に人間的深みを加えつつあった。職場にいる若い婦人たちの絵のグループは柳瀬正夢などによって指導され、リアリスティックな画家新井光子があった。
これらのすべての婦人作家、俳優、音楽家たちは、この時代になってはじめて、婦人として自分たちの芸術理論をもった。一人一人の発見物としてではなく、日本の進みゆく歴史の中で、その進む足どりを、歴史の真実にしたがって、一層多数の民衆の解放と独立のために押しすすめようとする共通の立場に立った。抑えられて来た女を、前進させる歴史のうちに社会的・芸術的に立ち上らそうと希う進歩的な男の人たちの自覚を等しくわが自覚として、婦人たちは自分たちの芸術理論をもったのであった。
雑誌『女人芸術』が、一九二八年(昭和三年)長谷川時雨によって発刊された。特にプロレタリア文学に限らず、ひろく、多様に婦人の文学的創造力を発揮させる場面として発刊された。この雑誌には、山川菊栄、神近市子、板垣直子のような評論家からフランス文学の翻訳の仕事をした大久保(八木)さわ子、そのほか下位文子、正宗乙未、松本恵子等の翻訳家、平林たい子、中本たか子、戸田豊子、大田洋子、円地文子、大谷藤子、真杉静枝、大石千代子、林芙美子、詩人として永瀬清子等の作品ものせられた。『女人芸術』は「全女性進出行進曲」というものを募集して松田解子の歌詞が当選した。それが発表された号の編輯後記にはこう書かれた。「奮え、諸氏、我々はこの歌を高唱して怯懦なる我を追い退
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