労農党を生み、左翼に共産党の萌芽をもった。
 こういう動きは、芸術運動にも反映した。日本プロレタリア文芸連盟はトランク劇場の活動や漫画市場をひらいて評議会が指導した共同印刷のストライキを支持・応援したし、(このストライキの物語が、後に徳永直の「太陽のない街」として文学化された)連盟員は『無産者新聞』に文学的・美術的協力をした。自然発生の労働者文学と云われたものに対して、「調べた芸術」と云い、「外在批評」と云い、藤森成吉の文芸理論の推進と云い、いずれもより科学的に、客観的にプロレタリア階級としての文芸理論を確立しようとして来た人々は、主観的な反抗を爆発させるアナーキズムとおのずから分離し、一九二六年(大正十五年)日本プロレタリア文芸連盟の第二回大会では再組織が行われた。そして日本プロレタリア芸術連盟(プロ芸)となり、『文芸戦線』もアナーキストとして態度を明瞭にした村松正俊、中西伊之助等が中心を退いた。思想的雑居の状態で共同戦線をもっていた初期のプロレタリア芸術運動は、発展につれて基本的な階級の観念とその闘争の具体性を把握しはじめ、アナーキズムと訣別することとなった。画期的な意味をもつこの現象に直接影響したのは、青野季吉によって『文芸戦線』に書かれた「自然生長と目的意識」という論文であった。この「自然生長と目的意識」という論文については、今日の読者にとっても十分関心をもたれるべき理由がある。この論文は、青野季吉の善意の所産であり、プロレタリア文芸理論に歴史的役割をもったにもかかわらず、当時彼が翻訳していたレーニンの「何を為すべきか」の政治理論をそのまま芸術運動にあてはめて来て立論したところに、重大な未熟さがあった。「目的を自覚したプロレタリア芸術家が自然生長的なプロレタリアの芸術家を、目的意識にまで引上げる集団的活動」という主張となって、芸術の芸術としての条件と機能とは見落されたのであった。この青野季吉の論文がモメントとなって、ひきつづき『文芸戦線』『プロレタリア芸術』に発表された谷一、中野重治、鹿地亘、久板栄二郎等の論文は、「ただ青野季吉の政治理論を福本の政治理論によって代えたものにすぎなかったのである。」一九二九年にこう批判しているのが、蔵原惟人であることに、注目しなければならないと思う。蔵原惟人はつづけて云っている。「だから『目的意識』がこれらの人々によって芸術作
前へ 次へ
全185ページ中104ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング