品に応用されるや、それは所謂『政治的曝露』や進軍ラッパの理論となり」「事実上芸術の否定にまで到達したのである」と。
 一九三四年、プロレタリア全文化運動が弾圧によって崩壊しようとしたとき、日本プロレタリア作家同盟が書記長鹿地亘の執筆による「日本プロレタリア文学運動の方向転換のために」「文学運動の新たなる段階のために」を発表した。その前後から、作家同盟内には、既に獄中にあった蔵原惟人、三三年二月に虐殺された小林多喜二等に対する「政治的偏向」の非難がわき立っていて、三三年頃に発表された殆どすべての論文には、前小冊子と同じに蔵原惟人などの指導上の誤謬ということをあげないものはなかった。検事局の求めるその誤謬指摘[#「誤謬指摘」に傍点]によって、実に多くのプロレタリア文学者の政治と文学の階級性抹殺に役立てたのであった。僅か四年前「プロレタリア文芸批評界の展望」の中で、「目的意識論」の功罪を明瞭にして、芸術の芸術としての独自性を語っている蔵原が、もし発言する自由のある境遇にいたら、果して、あれらの批判は存在し得たであったろうか。些細に見えるこの点が、今日くりかえして一般の前にとりあげられなければならない真面目な一つの理由がある。一九三三年以後十二年間、全く暗黒のうちに埋められてしまっていたプロレタリア芸術理論は、その期間に当然行われなければならなかった検討も発展もとげないまま、いきなり一九四五年八月以来の民主主義文化運動と接続させられた。必要な文学史的回顧展望が行われていない。その上、三三年当時の文学団体にあって獄外に活動をしていた人たちは、あれほどの多弁さで、「政治的偏向」を非難した自身たちの歴史的未熟さについて、今日系統だてて客観的に自己批判していないし、問題を今日の必要にまで推進させていない。そのために、今日の所謂民主主義文学発言者の一部には、例えば平野謙の場合のように、信じられないような判断の混同と評価の錯倒さえ生じているからなのである。
「目的意識」の問題をめぐる論争が契機となって、一九二七年六月(昭和二年)日本プロレタリア芸術連盟は、遂に分裂し、福本の政治理論に立って芸術至上主義と政治闘争主義とを機械的に結合させる傾向の中野、鹿地、江馬、佐野硯等は残留し、藤森成吉、蔵原惟人、佐々木孝丸、村山知義、田口憲一、青野季吉、前田河広一郎、金子洋文、葉山嘉樹、小堀甚二等は脱
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