人が青野季吉であったということは、今日の読者に深い感慨を催させる事実であると思う。生活の発展と芸術の発展とを統一的な地盤の上に求めていたロシア文学専攻の評論家片上伸も、この外在批評の問題には深い興味を示した。
有島武郎の悲劇的な終焉後、労働生活に入り「狼へ!」という報告文学を発表した藤森成吉は、一九二六年「無産階級文芸論」を「社会問題講座」に書いて、これまでのプロレタリア芸術理論で不明確であったいくつかの点を、整理した。第一、プロレタリア文学とは、貧困、反抗、労働などばかりを書く文学ではなくて、現代資本主義社会のあらゆる問題をとらえて題材とし得る。プロレタリア文学は、ただ題材や作者の出身階級によって生まれるのではなくて、「作者の精神の問題」である。プロレタリアとしての意識がかけているならば、題材ばかり労働を描いても何らプロレタリア文学ではないということ。第二、プロレタリア文学が労働者とその階級出身の作家によってでなければ生れないと考えることは誤っている。知識階級の作家であろうとも本当に現代の歴史の中でプロレタリアが担当している任務を知り、その立場に立つ者ならば、それはプロレタリア作家と云い得る。歴史のすべての例を見ても、「偉大なインテリゲンツィア出身の革命家が理論のみならず実行において、如何に働き献身し、実効をあげたか」労働階級が自分たちの文学を生みだす過程に知識階級は協力するものとして理解された。第三に、プロレタリア文学の形式の問題がとりあげられた。初期の自然主義的な手法にあきたりない金子洋文、村山知義などの人々はドイツの表現派の影響をうけエルンスト・トルラーやカイゼルに追随していたが、ルナチャルスキーが表現派を大戦後のドイツの小市民的感覚から発生した様式であるとした判断に賛成して、プロレタリア文学の様式は表現派でなければならないという一部の論に反対した。
一九二五年十月(大正十四年)に『無産者新聞』が創刊され、二六年には労働農民党(略称労農党)が結成された。この前後のいきさつは河上肇の自伝の中にも興味ふかく物語られているが、この頃から、従来ひとくちに「無産階級運動」と云われていた解放運動のなかで、アナーキズムとマルクシズムとの対立がはっきりとして来た。労働組合の方では、労働総同盟が分裂して組合評議会が誕生し、労農党の分裂は右翼に社会民衆党をつくり、中間に日本
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