ピア思想である。先に『白樺』の動きについて述べたとおり武者小路実篤の人道主義は、はじめから主観的は汎人間天才論で客観的な社会発達の歴史の具体的条件に立っての究明から出発しているのでなかった。階級の観念が次第にはっきりして、文学運動にもそれが反映しはじめている時期に考えられ、又実現した「新しき村」は、最も率直に表現すれば、経済と精神の一種の薄弱者のよりどころとしてしか意味を存しなかったのである。
ワルト・ホイットマンの詩集『草の葉』を翻訳し、無産運動とその文学運動に対しても必然な発生の理由を理解していたのは有島武郎であった。同じ『白樺』でも武者小路とは全く反対であった。無産階級の解放とその新しい文学の主張を、有島武郎は人道主義に立つ一個の知識人としての自身の良心にとって決定的な関係をもつものとして受けとった。しかも当時の新しい文学の理論は、その成長の段階として多くの未熟な解釈をもっていたところへ、一上流人、一知識人作家として彼の当面していた個人の複雑な条件が絡んで、悲劇的に進行することとなった。
芸術家としての有島武郎を見るとき、彼の人道主義的な傾向は、武者小路実篤の場合より、遙かに複雑であり、内面的に鋭く相剋するものから発端した。有島武郎が、二十八歳のとき、教育者になろうか、文学者になろうかと迷ったということなどなかなか意味の深いことだと思われる。
明治十一年という時代に生れた武郎は、幼時から「出来るだけ欧米の教育」を授けられる一方、「最も厳格な武士風の庭訓を授けられ」、三十二歳の年、『白樺』創刊とともに作家活動に入る迄には、子供のうちから植えこまれている様々の内的矛盾に苦しんで、一度ならず自殺しようとしたほどの精神の葛藤を経た。大正六年前後から作家活動が旺盛となり、ヨーロッパ文学の系統に立つ構成力や、流達であると同時にやや講壇風なところもある表現の力強さ、重厚な描写の間に、この作家のきわだった特質である心のやわらかさ、感傷が、人類の愛の正義に立つ芸術家としての彼の作品に常に一抹の哀愁、甘さとして加わり、当時の若い人々、知識婦人などを魅した。
上流生活の面倒な環境と結びつきながら作家として有島武郎が抱いた人類のひろやかな自由と愛への憧憬ははげしかった。絶えず彼の内部に存在したヨーロッパ風の自由主義に立つ教養と家風にしみている武士気質の躾との間の衝突、そういう
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