階級が、明治の日本のブルジョアジーと転身した。この事情は、市民社会を経て近代ブルジョアジーを成長させて来たヨーロッパ諸国の民衆の歴史とは、全く異った性格をもって、今日までの日本の社会と婦人の立場、働くものの立場に影響して来ているのである。
 ところで、先にふれた通り山川菊栄等が、大戦を転機として婦人問題の中心は参政権問題ではなくて搾取するものと搾取されるものと対立した階級社会における勤労階級として婦人労働母性保護の問題にうつったということを世界の趨勢として告げているのに、一方では、らいてうなどを中心とする中流婦人たちが参政運動に歩み出して来た当時の日本の現実にあらわれた二つの潮流は、注目すべき現象であった。
「あらゆる人間に人間らしい生活を」望むという大戦後の進歩的な世界思潮は、歴史的な凸凹の甚しいのが特色である日本社会の上にうちよせて来たとき、あらゆる凹みにそれぞれの特徴をもつ溜り水として残った。その一つの溜り水が、らいてうなどによって示された中流層の要求としての普選、婦選を醸し出し、勤労階級というものの自覚に到達した有識人・労働者群のところでは、勤労者たる自分たちの運命を改善しようとする社会主義的な希望に立たせ、普選や婦選をその目的に沿う条件の一つの具体化と見るようになった。そして、ひとくちに婦人と云っても、それぞれの属していた社会層と、その集団が歴史の進展をどう把握しているかということで、婦人の間にも社会的な立場というものが、次第にはっきりわかれはじめ無産婦人運動が擡頭したことは意味ふかい事実である。昔、堺真柄などを中心とする赤爛会が小規模な無産婦人運動のさきがけを示した。後、大正八年に総同盟婦人部というものが、労働婦人の利益を守って、組合の活動で当時婦人の、勤労婦人の向上を計るために作られた。大正十三年総同盟の関東同盟が分裂して、関東地方評議会となったとき、ここに婦人部が設けられ、無産婦人運動は、組合活動から政治的闘争にうつり昭和二年には左翼の立場をとる若い婦人たちによって関東婦人同盟が創立された。
 文化のひろい面にも、本質的な変化が現れはじめた。東京帝大文学部が初めて婦人聴講生を許可して、一部の好学の若い婦人たちの胸をときめかせた次の年、女子のための労働学校がひらかれた。
 時代はこのように一年一年と推移して、文学の面でも人間らしく生きようとする民衆の意
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