れて、思い浮ぶのは福沢諭吉の「女大学評論」である。明治初頭の大啓蒙家の一人であった福沢諭吉の「学問のすゝめ」は明治五年に発表された。それだのに、「女大学評論」の公表されたのは漸々《ようよう》明治三十二年になってからであった。「二五歳の年、初めて江戸に出たる以来、時々貝原翁の女大学を繙き自ら略評を記したるもの数冊の多きに及べるほどにて、その腹稿は幾十年の昔になりたれども、当時の社会を見れば(中略)真面目に女学論など唱ふるも耳を傾けて静に之を聞くもの有りや無しや甚だ覚束なき有様」だったので、漸々彼が六十八歳の生涯を閉る僅か二年前の明治三十二年、「新女大学」とともに時事新報に発表したという事実は、深刻に日本の明治開化の非近代的な性格を反映している。自由民権論者の間に、男女平等は唱えられたが、その局部的な火は憲法発布の反動の嵐に消されて、明治は重い封建の軛をひいたままで進んで来た。
 福沢諭吉は「女大学評論」の冒頭で、先ず「女大学」の著者貝原益軒が社会的なあらゆる立脚点で「男女を区別したるは女性の為に謀りて千載の憾と云ふも可なり」と云っている。「女大学は古来女子社会の宝書と崇められ一般の教育に用ひて女子を警むるのみならず女子が此教に従つて萎縮すればするほど男子のために便利なゆゑ男子の方が却つて女大学の趣旨を唱へて以て自身の我儘を恣にせんとするもの多し」「女子たる者は決して油断す可からず」旧い女大学に対する「新女大学」で諭吉は、「日本女子に限りて是非とも其知識を開発せんと欲するところは社会上の経済思想と法律思想と此二者に在り」「其の思想の皆無なるこそ女子社会の無力なる原因中の一大原因なれば」と強調しているのである。そして、結婚は男女の相互的な理解と愛とに立脚されるべきこと、家庭の父と息子と娘との取扱いに差別を少くして、女の子の経済的安定を計り、適宜に財産も分配してやるべきこと、これからの婦人は、科学知識もゆたかにしなければ不幸であることなどを、懇切に熱意をもって主張したのであった。
 けれども、明治の支配者たちは、土台から日本民衆の自由と解放とを計画して出発したのではなかった。半封建的な土地制度と貧農の子女の奴隷のような賃銀によって儲ける繊維産業の上に立って、近代資本主義国の間の競争に参加しはじめたのであった。徳川支配の下に殿様であった島津、毛利などの藩主と下級武士と上層町人
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