めて発売された。らいてうの主観が、いかに「我れ我を游離する時潜める天才は発現する」という境地にとどまろうとしても、現実の波は追々彼女を年齢の上からも押しすすめてエレン・ケイの「恋愛と結婚」の思想にも近づかせた。『青鞜』は、同人たちの成長とともにいつしか社会への意識に向って、推し動かされて行ったのであった。
 時代の坩堝《かんか》としての『青鞜』は、主宰である平塚らいてうの生活の変化をもこめて、巻を重ねるにつれて推移した。
 明治四十四年、発刊当時の『青鞜』は、婦人の文芸雑誌としても或る新鮮さをもっていた。当時文学志望の若い婦人たちのための雑誌であった『女子文壇』や『ムラサキ』は如何にもネオ・ロマンティック時代らしい趣味をたたえた渡辺与平や竹久夢二の插画や表紙で飾られながら、扉の写真には同時代に活動しはじめていた婦人作家や女詩人たちの肖像をのせようとせず、「日向代議士夫人の新粧」として洋装のきむ子夫人の写真をのせたり「代議士犬養毅氏令嗣及夫人」という題でフロックコートを着た良人と並んでいる洋装のマーガレットの若夫人の立姿をのせたりしている有様であった。代議士令嗣夫人という肩書ばかりで固有な女としてのその人の名は、其に不思議がないように抹殺されているところ。令嗣及夫人という身分ばかりは書き出されて、本人達の名前さえ全く消えているところ。若い婦人たちの文学志望が認められている当時の社会の一面に、どんな古い社会感情が湛えられていたかを具体的に示す例である。そういう空気の中で『青鞜』は、斬新であり、知識的であり、動的でもあった。周囲との摩擦の烈しさ、偏見、反動は、新しい女という言葉へ集注的に向けられたのであるが、大正三年、らいてうが、「独立するについて両親に」という文章を発表した頃から、『青鞜』のグループの生活と雑誌の内容とは、次第に現実的な動機を含んで変って行った。「独立するについて両親に」告げる文章は、平塚らいてうが「五分の子供と三分の女と二分の男を有っているHが、だんだんたまらなく可愛いものになって参りました」と、現在の良人である奥村博史氏との共同生活をはじめるについての宣言の文章であった。「現在行われている結婚制度に不満足である以上、そんな制度や法律に認めて貰う結婚はしたくないのです。私は、夫だの妻だのという名だけにもたまらない反感を抱く」と云い、両親が不安を抱くかも
前へ 次へ
全185ページ中63ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング