しれない子供の誕生ということについては「私は今の場合子供を造ろうとは思っていません」との断言が添えられてある。
 娘を片づけるという考えのもとに行われている旧来の結婚の習俗にあきたらないで、故郷を去って当時共同生活を営んでいた『青鞜』の同人には伊藤野枝があり、思想的な根拠に立って其の実践としてそういう形態の生活をもっていた人々には『青鞜』に直接の関係はなかった大杉栄、岩野泡鳴などがあった。
 嘗て『青鞜』創刊号に「元始、女性は太陽であった」という半ば神秘論に近い感想を発表した当時、らいてうは、その文章の中にも沢山女性という文字をつかって物を云っていたのに、実は、現実の社会に生活する女として、その実感を欠いていたという事実を、程経て自身心づいたということは、注目に価することであると思う。『青鞜』が第三巻に進んだ年、らいてうは初めてエレン・ケイの「恋愛と結婚」を読んだ。そして、その紹介と部分的な翻訳を発表するに際して、次のように語っている。「或る意味で自分は新しい女を以て自任しているものではあるが、実際を考えると多くの場合は自分は女だとは思っていない。(勿論男だと思っているのでないことは云う迄もない)思索の時も、執筆の時も、恋愛の時でさえも女としての意識は殆ど動いていない。只自我の意識がある丈だ」「そのせいか自分は女なのにもかかわらず十九世紀から――いや十八世紀からそうだ――喧しく云われている婦人問題も実のところいまだに自家内心の直接問題とはならずに来た」と。
 中流的で当時としては自由な家庭の雰囲気の中にあった彼女の生活は、経済の面でも思想の面でも謂わば温室育ちであった。女として実感の目ざまされる現実が欠けていた。そのらいてうがエレン・ケイの論文にひきつけられて行った生きた関心の動機は、抑々《そもそも》何であったろうか。やがて三十歳に近づいていたらいてうの許を屡々訪れるようになった青年、彼女自身其人を若い燕と呼んだ愛人との交渉が、ケイの思想へも生きた脈動を感じさせたのであったと思える。
 両親に宛てた形で書かれているとは云え、その実質は結婚の旧い習俗へ向って投げている昂然たる宣言とともに、らいてうは親の家を出て、巣鴨の植木屋の離れに、奥村博史との新生活を営みはじめた。ところが、従来『青鞜』の編輯事務に携っていたひとがその部署を退くことになって、『青鞜』の編輯の全事務は
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