風の観念的なものを多分にもっていたにかかわらず、当時の婦人の間に生じていた動きの底づよさは、青鞜社というものに一つの中心を見出して、それぞれの積極性をもって種々様々の婦人たちがその周囲にあつまった。当時は英学塾を出てまだ間もなく、赤い帯をしめた一人の眼の大きい娘であった神近市子。辻という人と同棲していたらしい時代の伊藤野枝。大杉栄の妻であった堀保子。岩野泡鳴の妻岩野清子。それらの人々の名が、婦人の生きる道の狭さを自覚した息づかいと、それに抗し、方向は明瞭でないながらもそれをうちひろげて行こうとする試みの気分に満ちた文章とともに『青鞜』の各号にあらわれた。旧套にしたがった結婚や、家庭生活への疑問が公然とのべられて、共同生活という、男女の新しい生活様式も、岩野清子の短い文章の中で云われている。文学的なものとしては、瀬沼夏葉がチェホフの「桜の園」の翻訳をのせ、野上彌生子がソーニャ・コヴァレフスカヤ伝を送った。岡本かの子、原あさを、原田琴子等の愛と歎きとの短歌。茅野雅子の、慎しい妻としての明暮のなかに、やはり心の見ひらかれた女としての自分に見出す境地のあることを唱った詩。そのほか、毎号いくつかの短篇小説がのせられた。其等の作品は試作的なものが多く、既に文学の新世界として出現していたネオ・ロマンティシズムの色調を多分に盛り、耽美的、官能的な感覚の流れが、女としての時代的な要求と絡みあったようなものが大部分を占めた。生田長江、馬場孤蝶、岩野泡鳴、阿部次郎、高村光太郎、中沢臨川、内田魯庵などという人々は、当時、酒をのみ、煙をふかし、吉原へ行くのが新しい女というような見かたをする世俗の偏見とたたかっていた青鞜社のグループに、好意ある支援を示した。
『青鞜』が第三巻を発行する大正二年頃になると、らいてうは「青鞜はムーヴメントをおこさむとするのではない、我々青鞜社員が目下の急務として努めるところは、真に新しい女として心霊上の自由を得た完全な一個の人格たらむとすることである」とやや弁明的な再宣言を行ったが、当時、一方では保守に傾いていた社会の常識と青鞜のグループとの摩擦は次第に激しくなって、青鞜社主催の文芸研究会の会場を借りるにさえ困難であるという状態になった。
らいてうの感想集『円窓より』は改訂して『※[#「戸だれ/(炯−火)」、第3水準1−84−68]《とざし》ある窓にて』として初
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