人称のみにて物書かばや
われは。われは。
われは愛づ。新しき薄手の玻璃の鉢を。
水もこれに湛ふれば涙と流れ
花もこれに投げ入るれば火とぞ燃ゆる
愁ふるは、若し粗忽なる男の手に砕け去らば。――
素焼の土器より更に脆く、かよわく。
[#ここで字下げ終わり]
続いてらいてうの有名な「元始、女性は太陽であった」という感想文がある。
「元始、女性は実に太陽であった。真正の人であった。今、女性は月である。他によって生き他の光によって輝く病人のような蒼白い顔の月である。私共は隠されてしまった我が太陽を今や取戻さねばならぬ。『隠れたる太陽を、潜める天才を発現せよ』こは私共の内に向っての不断の叫声、押えがたく消しがたき渇望、一切の雑多なる部分的本能の統一せられたる最終の全人格的の唯一本能である。その叫声、その渇望、その最終本能こそ、熱烈な精神集注とはなるのだ。そしてその極まる所、そこに天才の高き王座は輝く。」
散文詩のような調子で書かれているこの感想は、女性が奮い立って自身の天才の目醒めを翹望する熱烈な言葉に鳴り響いているのである。同時に、今日の歴史の光に照して見れば、らいてうがこのように高い調子で唱えている婦人の天才の発現の現実の過程というものが、どこまでも抽象的で、主観的な個人の精神集注の裡に求められている点に、意外な感じを抱かせられる。らいてうの理解によれば、天才への道は、一人一人の心の中の熱誠の道とされた。「熱誠とは祈祷力である。意志の力である。禅定力である。云いかえれば精神集注力である。」「私は精神集注の只中に天才を求めようと思う。天才とは神秘そのものである。真正の人である。天才とは男性にあらず、女性にあらず。」「私共女性も亦一人のこらず潜める天才だ。」「潜める天才に就て疑いを抱く人はよもやあるまい。今日の精神科学でさえこれを実証しているではないか」と、らいてうは「アントン・メスメル氏に起源を発した催眠術」を例として「いかに繊弱い女性でも」催眠術にかかったときや非常の場合は日頃予想し得なかった活躍を示す。天才の発揮もそれと同じ状態の下に行われるというのであった。「私の希う真の自由解放とは何だろう。我れ我を游離する時、潜める天才は発現する。」そして「自然主義の徒」というような表現で、その思潮の浅薄さが反撥されている。同時に、らいてうは婦人解放のための運動の歴史に対しても
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