外国小説をよんだり、自然発生の若い女らしいポーズを知的らしきもので粉飾する明子の珍しさに魅せられて、その交渉の面では受動におかれた姿が描かれている。
平塚明子自身は、その経験を自分のものとして芸術化する力は持たなかった。そのような行動に対して、よかれあしかれ周囲にまきおこった声々に対する抗議と宣言として『青鞜』が発刊されることになったのであった。
「青鞜」の名は、十八世紀の英国でメリー・ウォルストーン・クラフト夫人が婦人の社会的な向上は婦人の努力で解決されなければならないという主旨でおこした青鞜下《ブルー・ストッキングス》の運動に、その源を発している。
日本においての『青鞜』が発刊されたのは明治も終りに近い四十四年(一九一一)であった。
「新しい女」の代表と目されていた平塚雷鳥を筆頭として、物集和子その他三人ばかりの婦人たちが発起人となって、青鞜社が結ばれた。賛助員としては、劇作家として活動していた長谷川時雨、小説家として立っている岡田八千代、小金井喜美子、森しげ子、国木田治子、歌人の与謝野晶子、そして社員には、当時の新進であった野上彌生子、田村俊子、水野仙子をはじめ文筆的な活動をする十二人ほどの婦人の顔ぶれが網羅された。これはおそらくその頃の進歩的な婦人たち全員の勢ぞろいとも云うべき盛観であったろうと思う。
青鞜社概則第一条に「本社は女流文学の発達を計り、各自天賦の特性を発揮せしめ他日女流の天才を生まむことを目的とす」とかかげられていて、それがひろい意味の文学団体であったということも各種各様の婦人文芸家をそこに集めた重大な理由であったと見られる。けれども、文学的閲歴の古い、生活環境の温和な上流夫人たちである小金井喜美子や森しげ子が、「新しい女」の声におびえず、若い同性のために賛助員となっているということも、時代の姿として目をひかれる。女性の活溌な自由の社会生活への欲求は、それほど一般的で、その欲求では当時日本の女が年齢や境遇の相違もさながら忘れたかのようであった様子が髣髴する。
創刊号の巻頭には、興味ふかい時代の象徴をもって、次のような与謝野晶子の「そゞろごと」という詩がのった。
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山の動く日来る。
かく云へども人われを信ぜじ(中略)
すべて眠りし女《をなご》今ぞ目醒めて動くなる。
一人称にてのみ物書かばや
われは女《をなご》ぞ
一
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