て地方文化のうちに生きた威力を逞しくしている。そのような家の空気、家長的な圧迫に抗する情熱は、生活力に溢れるそれらの婦人たちを様々な形で故郷に背かせただろう。父兄の圧制は、やがて女としてめざめた眼に良人の妻への専制とつづいて周囲や我身の上に目撃されるようになったろう。周囲の現実をあるがままに見れば、女として伸びたい心の痛切な叫びは高まって、而も、封建の要素を多分にもちこした社会の構成からもたらされている非人間的な条件の本質を理解する迄には成長していなかったこれらの婦人たちが、その鬱積を男に向けて、男の専横からの女性の解放という方向に赴いたことは、その時代の、それらの婦人たちの生活の環境や教養から推して十分に肯ける。
坪内逍遙が明治四十三年に何かの講演で、はじめて、「新しい女」という表現をしたということが、神崎清氏の「現代女性年表」に記されている。しかしながら、祖母たちの中にスタール夫人もジョルジュ・サンドも持っていない日本の「新しい女」というものは、その内容に、何と複雑な旧さと新しさの混淆を持っていただろう。自身の知らない歴史的な混迷がそこにあった。
新しい女という造語の動機をなしたのは、明治四十一年、ダヌンツィオの「死の勝利」をもじって「死の勝利」事件と云われ、当時の耳目を聳動させた文学士二十五歳の森田草平と女子大学生平塚明子との塩原の雪の彷徨事件であった。「教育界の胆を奪い、芸術界の人士をして之あるかなと膝をうたしめた」というような文章が当時の文芸雑誌に見えるのも、今日から見れば時代の色があらわれていて興味深い。事柄の核心は、恋愛と、それに絡む若い文学好みの男女の自我の観念上の格闘であるが、その時代の空気の中では、二十歳の明子が「われは決して恋のため人のために死すものに非ず。自己を貫かんがためなり。自己の体系を全うせむがためなり。孤独の旅路なり」という遺書をかいたということさえ、従来の女にあきたらず、しかもあきたりない女を生む社会の条件が自分にも作用していることに理解の到らなかった「人士」に対して一つの衝動として受けられたのであったろう。
森田草平は小説「煤煙」の中で、そのいきさつを描いた。当時の若い知識人の生活感情の混乱と矛盾とがこの「煤煙」によく窺われる。旧来の男の身勝手な生きかたと自然主義的現実曝露の気分との混淆で生きる主人公が、禅学趣味をもったり、
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