一つのはっきりした反撥を示している。「女性の自由解放という声は随分久しい以前から私共の身辺にざわついている。然しそれが何だろう」「女性をしてたゞ外界の圧迫や拘束から脱せしめ、所謂高等教育を授け、ひろく一般の職業につかせ、参政権をも与え、家庭という小天地から又は親といい夫という保護者の手から離れて、所謂独立の生活をさせたからとて、それが何で私共女性の自由解放であろう。」そういうものは総て「方便である。手段である」「潜める天才偉大なる潜在能力」を発揮させる妨害となるものとして、取り除かなければならないのは「我そのもので」あるというのがらいてうの結論なのであった。
 これらの論調は、今日の私たちに、おのずから高山樗牛のロマンティシズムを思いおこさせずにはいない。
 樗牛は、『青鞜』が現れる丁度十年前「美的生活を論ず」という論文で、独特華麗なロマンティックな文筆的雄弁をふるいながら、人を服従させる立場に立って、三十年代の日本の市民的自覚の当然のみのりとして、権利と義務という観念が云われはじめたことに反対した。「人生の帰趨は貸借の外に超脱するを如何せむ。」「嗚呼憫むべきは飢ゑたる人に非ずして麺麭の外に糧なき人のみ。人性本然の要求の満足せらるゝところ、其処には乞食の生活にも帝王の羨むべき楽地ありて存在する也」「貧しきものよ、憂ふる勿れ。望を失へるものよ、悲しむ勿れ、王国は常に爾の胸に在り」と高唱した。そして、彼は田岡嶺雲や金子筑水が日清戦争後の日本に社会小説というものが発生した必然を肯定したのに対しても反対した。樗牛の意見では、社会が進化してゆく道程で貧富が分れその懸隔が日に日に大きくなってゆくのは当然であるとされた。社会小説は「分に応じた服従を示すことをもつて幸福を受けさせるべき」であり「貧弱者に教ふるに服従を以てせ」ざることを非難したのであった。
 旧来女性は社会的貧弱者であるとされているのだから、教うるに服従をもってせよ、と云ったら、雷鳥は憤激したであろう。しかしながら、ニイチェの超人を説いたり、「吾人は須く現代を超越せざるべからず」と云ったりした樗牛のロマンティシズムと、「元始、女性は太陽であった」という文中の思想の本質とは、歴史的に観察すれば背中合わせの双生児とも云うべきものであった。
 樗牛のロマンティシズムは三十年の日本に咲きかえった二十年代のロマンティシズムの惨
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