たいと思う場合もあるに違いない。その時、まして茂索氏やふさ夫人のような気質の人たちであったら、大したものでもない題材へ、夫婦が両側からとびつく姿をめいめいの心の中に描いただけでもうんざりするというところがあり、具体的には計らず互に牽制する結果となって才能をいつか凋《しぼ》ませ、みえを忘れて文学を創る者ではなく、文学を理解し愛好するものにまで生活態度を消極化してしまうのではあるまいか。人と人との組合わせから起るおとのない悲劇のように、私はその過程を寧ろすさまじいものに考えたのであった。
宇野千代氏が、作家尾崎士郎氏との生活をやめた心持も他のことをぬいて、その面からだけ見て、理解しがたいものとは映らなかった。
私はそれ等のことを主として、作家としての完成というものも個人的な立場だけに立っているうちはその可能にどんな限度があるかという事実を理解し得なかった時代に考えたのであった。男にしろ女にしろ、めいめいの条件に応じて生活意欲を貫徹するためには夫婦の結合にもそれがプラスの力となるものと、マイナスの作用を及ぼすものとある。そういう一般的な常識の範囲内で、しかし猶婦人作家に関する社会的な問題
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