夫婦が作家である場合
宮本百合子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)焙《や》きついた
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)勝った[#「勝った」に傍点]とか、
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よほど以前のことになるが田村俊子氏の小説で、二人とも小説をかくことを仕事としている夫婦の生活があつかわれているものがあった。筋や、そのほかのことについてはもう思い出せないのであるが、今も焙《や》きついた記憶となって私の心にのこっている一場面がある。何か夫婦の間の感情が気まずい或る日、妻である婦人作家が二階の机の前で小説が進まず苦心していると、良人である男の作家がのしのし上って来て、傍から、何だ! そんなことじゃ先が見えてる。僕なんか三十枚ぐらいのものなら一晩で書くぞという意味の厭がらせを云って、妻の作家の苦しい心持を抉るようにする。しかも、良人である作家は、その時もう創作が出来ないような生活の気分に陥っているのが実際の有様であったというようないきさつが、田村氏独特の脂のつよい筆致で描かれているのであった。
私は、その小説を読んだ時、二十前後であったと思うが、深刻な感銘をうけた。自分の女としての一生についても考え、いつかしらぼんやり感じていたことを改めてはっきり、自分は決して作家を良人には持つまいと心にきめたのであった。
それから後、又何程か経って、女の作家として私の持つその考えを更に内容的に多様化し確めるような一組の作家夫婦を見た。いずれも文学的公人であるから名をあげることをも許されると信じるが、その夫婦は佐佐木茂索氏夫妻である。
何かの折佐佐木茂索氏とふさ夫人とが題材としては小さい一つの題材を二人両様に扱って書いたところ、(或は書こうとしたところ)その扱いかたの腕では、茂索氏が勝った[#「勝った」に傍点]とか、ふさ夫人がまけ[#「まけ」に傍点]たとか、単に二人をかけ合わすのが面白いというような対比のしかたでゴシップにのぼったことがあった。
私は、その当時、田村氏の場合と違った種類で感想を刺戟された。二人ともうるさくて厭だろう。私は主観的にそう思いやって感じた。内でも外でも、二人の作家としての神経が夫婦の生活感情の中に在っては、互にくたびれるであろう。例えば、一緒に暮していれば生活の中に起った同一のことについて、妻も良人もその瞬間ああ書き
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