たいと思う場合もあるに違いない。その時、まして茂索氏やふさ夫人のような気質の人たちであったら、大したものでもない題材へ、夫婦が両側からとびつく姿をめいめいの心の中に描いただけでもうんざりするというところがあり、具体的には計らず互に牽制する結果となって才能をいつか凋《しぼ》ませ、みえを忘れて文学を創る者ではなく、文学を理解し愛好するものにまで生活態度を消極化してしまうのではあるまいか。人と人との組合わせから起るおとのない悲劇のように、私はその過程を寧ろすさまじいものに考えたのであった。
宇野千代氏が、作家尾崎士郎氏との生活をやめた心持も他のことをぬいて、その面からだけ見て、理解しがたいものとは映らなかった。
私はそれ等のことを主として、作家としての完成というものも個人的な立場だけに立っているうちはその可能にどんな限度があるかという事実を理解し得なかった時代に考えたのであった。男にしろ女にしろ、めいめいの条件に応じて生活意欲を貫徹するためには夫婦の結合にもそれがプラスの力となるものと、マイナスの作用を及ぼすものとある。そういう一般的な常識の範囲内で、しかし猶婦人作家に関する社会的な問題として考えていたのであった。
今日の到達点に立って再びこの問題が私の注意をひくのは、プロレタリア作家の間に夫婦で小説を書いている婦人作家が数人いるからである。そして、それは、ブルジョア作家の場合よりも数において多くなって来ている。これ等の婦人作家と作家である良人とは、どのような新しい社会関係の実質によって日常的に結ばれているか。私自身、良人と自分との結合の内容にもふれて、様々に感慨深く思うからなのである。
ブルジョア作家が夫婦である場合、相剋の起る理由は、わかり易いように思われる。男女のブルジョア作家が、もし今日の社会的現実として、自分たちの文学における発展の限界性の根源を、互の間の問題に止めず、階級の本質にまでふれて実感し得るなら、その作家たちは既に単純に概括される意味でのブルジョア作家ではなく、従って夫婦間の相剋もより広い社会的性質のものとしてとり上げられるようになるのではあるまいか。
プロレタリア作家夫婦にとっての関心事は、それから先に在ると私は思う。プロレタリア婦人作家の実にこまごまと粘りづよい現実の重荷の内容は、良人も作家であるためにやりにくいという割合を遙か越えて、今
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