される。社会の事情はこのような場合を、プロレタリア作家の間に限らず益々広い社会生活の面で、特に婦人の側からの切実な発展的苦悩として引き出しつつある。
 平林英子の「育むもの」はこのような意味において、或る問題をなげていたと思うのである。
 十月号の婦人公論であったか、千葉亀雄氏が、婦人と読書のことについて書いておられた。その文章で、婦人がたとえばイギリスのような国でもどんなに扱われていたかという実例に、ジェーン・オウスティンがあのような傑作をかくに仕事部屋を持っていなかった。そして訪問者があると原稿をかくしたということをあげておられた。更に現代の引例として、やはりイギリスの国際的地位にある婦人作家ヴァージニア・ウルフの書いたものの一節を引用してあった。それは、婦人の時間は台所や子供部屋や寝室の間にまぎれ過されることが実に多い。私は一方ならない困難の後に、やっと小さいながら自分の部屋と呼ぶことの出来るものを持つことが出来るようになった。というような意味の言葉であったと覚えている。
 私はその文章全体を面白く印象ふかくよんだ。私のまわりでは本当に、良人が作家であることには苦しまぬが只自分の部屋がないので困っている婦人作家があるのだから。
 ところでその後、ヴァージニア・ウルフの作品を一寸読む機会があり、つづいて伝記を読み、私は千葉氏にもそれに注意をよび起された自分に対しても全く別な内容で或る感銘を覚えた。
 ウルフは、英国の上流人であるレズリー・ステフン卿の娘に生れ、家庭で教育されている。これは貴族的教育法である。ウルフ氏と結婚してから夫婦で出版所を経営している。このような環境のウルフ夫人に家という建物の中で自分の部屋さえなかったということは、私には殆ど想像出来ない。まして、六つの子供さえ、一部屋の主人として扱う英国の中流以上の家庭において。「ウルフは一つの世界を創造する。男と女との世界ではない。ほんのりした薄明りのような、不思議な、活々した」「漂う泡沫のように捕捉し難い世界をつくる」と形容されているこの婦人作家が、世帯じみた現実的な部屋のことをさして書いたと私は考えにくい。ウルフは、観念の世界で、世俗の女とちがう独特な境地を獲得した自身について、部屋というものを全く一つの象徴として書いたのではないであろうか。
 もし、私の推察がひどく的をはずれていなければ、それをわれ
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