不満と希望
――男性作家の描く女性について(『読売新聞』記者との一問一答)――
宮本百合子
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【テキスト中に現れる記号について】
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(例)社会的なつながり[#「つながり」に傍点]において
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問「男の作家に女性が書けるか書けないかというのは小説が書けるか書けないかというのと同じ愚問ですが、書けているとか、書けていないということはいえると思います。で女流作家の立場から男の作家の女性描写を検討していただきたいのです」
答「文学の上でネ、女を男の作家が書くとか書かないということは大づかみにいえばネ、その作家がどの程度まで現実的な人間を書けるかという問題になるでしょうから、その点だけいえばネ、それぞれの作家が生きていた時代やその作家の持っていた可能性をの範囲でネ、過去のすぐれた作家、現在の優秀な作家はネ、女をそれぞれに書いていると思います。たとえばトルストイが『アンナ・カレーニナ』を書き、『戦争と平和』の中でナターシャとかアンドレー公夫人とか、それから公爵令嬢マリアなどを、あんなにいきいき書けたことはすでに知れわたっていることだし、ロマン・ローランは『ジャン・クリストフ』の中で非常に感覚的にまで立ち入って幾つかの面白いタイプを書いているし、ジイドなどもやはり女はよく書いていると思うんですネ。夏目漱石なんかは『三四郎』やその他の小説の中で明治時代のインテリゲンチアの女のあるタイプを書いていると思うし、現代の作家では谷崎さんも女はさまざまの型で書いていますネ。しかしどうもネ、女の作家の気持からいうとネ、まだまだ充分満足するように書かれているとはいえないで、やっぱりまだ自分たちが書かねばならぬ残されているものがあると常に考えるのはおそらく私一人ではないだろうと思いますネ。正宗白鳥さんが、女は女を十分描いていないといわれたことがあり、室生さんだったか、何かの文の中に、自分は女を非常によく書きたいと希望を洩らしていた覚えもあり、菊池寛さん、山本有三氏は現代の女の化粧とか言葉づかいの描写から進んでタイプにまで迫ろうとしていることはよくわかります。しかも不満が残るのはなぜでしょう。
そのことについていつか友達が二三人集って笑いながら話したことでしたがネ、どうも大体、男の作家は女を描く場合、自分にとってというより、男にとって
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