まり社会的なつながり[#「つながり」に傍点]において全面的に書くか、ということは作家の社会性の問題に結びつけられて理解さるべきものなのでしょうね。昨今は若いインテリゲンチア作家が積極性を自身の文学の中に求めておられるしするから、さまざまの意味で作家の社会性は拡大されてゆくでしょう。従ってだんだん女についても表面的な現象を、しかも主観的に自分の好みでとり上げて書いてきた傾向は、もっと客観的な広い関係で理解されるようになってくるでしょうが、私はなんといっても、今日のわれわれの生活の複雑な関係の中に歴史の前進するモメントをとらえて男と女との関係にしろ、女独特の問題の性質にしろ描写してゆくことのできる新しい社会観、つまり目先では一応従来のものの考え方をする男にとっては不便な、あるいは愉快でない女の感情あるいは行動をも将来の社会的な見透しの方向で観察をし、かつ批判する力をもった作家が女のさまざまな現実的タイプをかき得るだろうと思います。
プロレタリア作家が、現在ではまだいろいろの制約もあり、技術上の未発展の部分もあるが、当然歴史的にみて、その可能性を持っているのだし、その可能性を自分の文学に具体化する責任を持っている訳だろうと思います。この点になれば私は男の作家だけの問題とは考えていないし、ある点から自分たちの責任だという考えを持っています。書けというのではなくて、自分が作家である以上書かなければならないという風に考えますからネ」
問「結局、新しいプロレタリア作家に期待されるわけですネ。では読者としてどんな作家の描く女性に興味を持たれますか」
答「好き嫌いということになると、大へんに内容が綜合的なものだからなかなか難しいけれど、どの作家が女を書くだろうかといえば、そうネ、菊池寛さんなんかがさっきいったような微妙な限界性の範囲内ではいきいきと金持の娘や奥さんや事務員などを書かれるだろうと思うし、谷崎さんのナオミは一つの誇張された女のタイプではあるが、好きともいえないでねえ……(考えて)……こんなに好きな女が思い出せないということも文学の上の一つの問題ですがネ。私どもは文学は現実のトッパナを行っているように考えているけれども案外おくれているのがこれでも判りますネ。だって頭に浮ぶものは古典的作家の描いた女が多いのだもの。今、やっと思ったんですが、ブルジョア文学の中でも一般的に性格
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