貧しき人々の群
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)畏《おそ》るべき

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)大変|御利益《ごりやく》のある

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#「序にかえて」全体、天より2字下げ]
*入力者注だけの行は底本に挿入したもの、行アキしない
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[#「序にかえて」全体、天より2字下げ]

  序にかえて

 C先生。
 先生は、あの「小さき泉」の中の、
  「師よ、師よ
  何度倒れるまで
  起き上らねばなりませんか?
  七度までですか?」
と云う、弟子の問に対して答えた、師の言葉をお覚えでございますか?
  「否!
  七を七十乗した程倒れても
  なお汝は起き上らねばならぬ」
と云われて、起き上り得る弟子の尊さを、この頃私は、しみじみ感じております。
 第一、先ず倒れ得る者は強うございます。
 倒れるところまで、グン、グンと行きぬける力を、私はどんなに立派な、また有難いものだと思っていることでございましょう。
 今度倒れたら、今度こそ、もうこれっきり死んでしまうかもしれない。
 が、行かずにはいられない。行かずにはすまされない心。
 ほんとうにドシドシと、
 ほんとうにドシドシドシドシと、真の「自分の足」で歩き、真の「自分の体」で倒れ、また自ら起き上られる者の偉さは、限り無く畏《おそ》るべきものではございますまいか。
 まだ心の練れていない、臆病な私は、若しや自分が、万一倒れるかもしれないことを怖がって、一尺の歩幅で行くところを、八寸にも七寸にも縮めて、ウジウジと意気地なく、探り足をしいしい歩きはしまいかということを、どれ位恐れているでございましょう。
 私は、もう二足踏み出しております。その踏み方は、やがて三度目を出そうとしている今の私にとっては、決して心の踊るように嬉しいものではございませず、またもとより満足なものでは勿論ございません。
 けれども、どうでも歩き廻らずにはいられない何かが、自分のうちに生きているのでございます。
 たといよし、いかほど笑われようが、くさされようが、私は私の道を、ただ一生懸命に、命の限り進んで行くほかないのでございます。
 自分の卑小なことと自分の弱いことに、いつもいつも苦しんでばかりいる私は、一体何度倒れなければならないのか?
 それは解らないことでございます。
 けれども、私はどうぞして倒れ得る者になりとうございます。地響を立てて倒れ得る者になりとうございます。そして、たといどんなに傷はついても、また何か掴んで起き上り、あの広い、あの窮《きわま》りない大空を仰いで、心から微笑出来ましたとき! その時こそどうぞ先生も、御一緒に心からうなずいて下さいませ。
  一九一七年三月十七日  著 者[#「著 者」は天より40字下げ、地より2字上げ]
[#ここで字下げ終わり]

        一

 村の南北に通じる往還《おうかん》に沿って、一軒の農家がある。人間の住居というよりも、むしろ何かの巣といった方が、よほど適当しているほど穢い家の中は、窓が少いので非常に暗い。
 三坪ほどの土間には、家中の雑具が散らかって、梁の上の暑そうな鳥屋《とや》では、産褥《さんじょく》にいる牝鶏のククククククと喉を鳴らしているのが聞える。
 壁際に下っている鶏用の丸木枝の階子《はしご》の、糞や抜け毛の白く黄色く付いた段々には、痩せた雄鶏がちょいと止まって、天井の牝鶏の番をしている。
 すべてのものが、むさ苦しく、臭く貧しいうちに、三人の男の子が炉辺に集って、自分等の食物が煮えるのを、今か今かと、待ちくたびれている。
 或る者は、頭の下に敷いた一方の手を延して、燃えかけの枝で、とろくなった火を掻きまわして、溜息を吐く。或る者は、さも待遠そうに細い足をバタバタ動かしながら、まだ湯気さえも上らない鍋の中と、兄弟共の顔を、盗み視ている。けれども誰一人口をきく者は無く、皆この上ない熱心さで、粗野な瞳を輝かせながらただ、目前に煮えようとしている薯《いも》のことばっかりを、考えているのである。
 逞《たくま》しい想像力で、やがて自分等の食うべき物の、色、形、臭いを想うと、彼等の眠っていた唾腺は、急に呼び醒《さ》まされて、忽ち舌の根にはジクジクと唾が湧き出し、頬《ほっ》ぺたの下の方が、泣きたいほど痛くなる。彼等は、頭が痛いような思いをしながら、折々ゴクリ、ゴクリと喉を鳴らし合っていた。
 子供等は年中腹を空かしている。腹が張るということを曾てちっとも知らない彼等は、明けても暮れても「食いたい食いたい」という欲にばっかり攻められて、食物のことになると、自分等の本性を失ってがつがつする。
 今も彼等三人が三人、皆同じように「若し俺ら独りで、こんだけの薯が食えたらなあ」と思い、平常はいなければならない兄弟共も、こんなときには何という邪魔になることかと、しみじみと感じていたのである。それだもんで、いつの間にか鶏共が俵の破れから嘴《くちばし》を突込んで、常に親父から、一粒でももったいなくすると目が潰れるぞと、かたく戒められている米粒を、拾い食いしているのなどに、気の付こう筈はなかった。
 鶏共と子供達とは、てんでに自分等の食物のことばかりに気を奪われていたのである。
 ところへさっきから入口の所で、ジイッとこの様子を眺めていた野良犬が、何を思ったか、いきなり恐ろしい勢で礫《つぶて》のように、鶏の群へ躍り込んだ。
 珍らしい米の味に現《うつつ》を抜かしていた鶏共は、この意外な敵の来襲に、どのくらい度胆を抜かれたことだろう! コケーッコッコッコッコッ、コケーッコッコッコッコッという耳を刺すような悲鳴。バタバタバタバタと空しく羽叩きをする響などが、家中の空気を動揺させ、静まっていた塵は、一杯に飛び拡がった。
 あまり騒動が激しいので、かえって犬の方がまごついてしまって、濡れた鼻で地面をこすりながら、ウロウロとそこいら中を、嗅ぎまわった。
 横に垂れ下った舌や、薄い皮の中から見えている肋骨が、ブルブル震えたり、喘いだりしているのである。
 この不意の出来事に、子供等は皆立ち上った。そして、一番年上の子は、火の盛《さかん》に燃えついている木株を炉から持ち上げるや否や、犬を目がけて、力一杯投げつけた。投げられた木株は、ヘラヘラ焔をはきながら、犬の後足の直ぐのところに、大きな音と火花を散らして転げたので、低い驚きの叫びを上げながら、犬は体を長く延して、一飛びに戸外《そと》へ逃げ去ってしまった。
 木株の火は消えて、フーフーと、激しい煙が立ちはじめた。
 この小さい騒ぎを挾んで、彼等の待遠い時は、極めてのろのろと這って行った。
 けれども、ようよう鍋の中から、グツグツという嬉しい音がし始めると、皆の顔は急に明るくなり、微笑した眼が幾度も幾度も蓋を上げては、覗き込んだ。
 これから暫くすると、一番の兄は、まだ朝の食物があっち、こっちに、こびり付いている椀を持って来て、炉の辺に並べた。これから、このホコホコと心を有頂天にさせるような香りのする薯が分けられようと、いうのである。
 一つ二つ三つ四つ。一つ二つ三つ四つ。
 彼は順繰りに分けていたが、不意に、前後を忘却させたほど強い衝動的な誘惑に駆られて、皆の顔をチラッと見ると、弟達のへ一つ入れる間に、非常な速さで自分の椀に一つだけよけい投げ込んだ。
 そして、何気なく次の一順を廻り始めようとしたとき、
「兄《あん》にい、俺《おい》らにもよ」
と、そのとき貰う番の弟が、強情な声で叫んだ。後の者も、真似をして椀をつきつけながら、兄に迫って行った。
 兄は、自分の失敗の腹立たしさに、口惜しそうな顔をしながら、突き出された椀の中に、小さい一切《ひときれ》をまた投げ込んでやった。
 けれども、初めに見つけたすぐ下の子は、兄のと自分のとを、しげしげ見くらべていた後、
「俺ら厭《や》んだあ! お前の方が太ってらあ」
と云うなり、矢庭に箸をのばして、兄の椀からその太った丸いのを、突き刺そうとした。
 物も云わせず、その子供の顔は、兄の平手で、三つ四つ続けざまに殴《ぶ》たれた。彼は火のつくように泣き出した。そして、歯をむき出し、拳骨をかためて「薯う一つよけいに食うべえと思った奴」にかかって行った。
 それから暫くの間は、三人が三巴《みつどもえ》になって、泣いたり喚《わめ》いたりしながら、打ったり蹴ったりの大喧嘩が続いた。仕舞いには、何のために、どうしようとしてこんなに大騒ぎをしているのかも忘れてしまったほど、猛り立って掴み合ったけれども、だんだん疲れて来ると共に、殴り合いもいやになって来た。気抜けのしたような風をしながら、めいめいが勝手な所に立って、互に極りの悪いような、けれどもまだ負けたんじゃねえぞと威張り合いながら、いつの間にかこぼれて、潰れたり灰にころがり込んだりしている大切な薯を見詰めていた。
 皆、早く食べたい、拾いたいと思ってはいるのだけれど、思いきって手を出しかねていると、喧嘩を始めたなかの子が、押しつけたような小声で、
「俺ら食うべ」
とこぼれたものを、拾い始めた。
 これを機《しお》に、ほかの者も大急ぎで拾った。
 そして、また更《あらた》めて数をしらべ合うと、今はもうすっかり気が和らいで、かけがえのない一椀の宝物を出来るだけゆるゆると、しゃぶり始めたのである。
 これは、町に地主を持って、その持畑に働いている、甚助という小作男の家の出来事である。

        二

 ちょうどそのとき、私は甚助の小屋裏の畑地に出ていた。ブラブラ歩いてそこまで来ると、思いがけず子供等の様子が目に付いたので、傍の木蔭から非常な興味を持って、眺めていた。そして薯のことから、喧嘩からすっかりを見てしまったのである。初めの間は、私はただ厭なものだ、あさましいものだと思っていたけれども、だんだん恐ろしいようになり、次で、たまらなく可哀そうになって来た。彼等に対して一切《ひときれ》の薯は、どれほど勢力を持っているものか。若し私に出来ることなら、うんと厭になるほど御馳走を食べさせて遣《や》りたいというような心持も起ったけれども、とうとう、私はどうしてもあの子供等と近づきになって見ようという激しい好奇心に、すっかり打ち負かされてしまった。
 私は、さっさと独りで入って行こうともしたが、何だかばつが悪い。
 向うがいくら子供達でも、何だか極りが悪い。で、私は誰か来て私を連れてってくれればと思いながらぼんやりと立っていた。裏口からは、子供等が口の中で薯をころがしたり、互の椀の中を覗き合ったりしているのがすっかり見える。
 ちょうど好い塩梅に、そのとき甚助の身内の者で、家が傍だもんで、日に一度ずつ子供ばかりで留守居をしている所を見廻っている婆が、いつものように手拭地のチャンチャン一枚で向うから来た。
 私は早速婆にたのんだ。そして、初めて甚助の家へ入って見たのである。そこいら中は思ったより穢く臭かった。
 私が戸口の所に立って、内の様子を眺めていると、婆は、けげんな顔をして、ジロジロ私の方ばかり見ている子供達に、元気の好い声で種々《いろいろ》世話を焼いてやっている。
「ちゃんは今日も野良さ行ったんけ? おとなしく留守をしてろよ。また鉄砲玉(駄菓子)買ってくれっかんな」
 そして黙り返ったまま、婆が何と云おうが返事をしようともしない子供達に、何か云わせようとしきりに骨を折っても、頑固な彼等はただ、臆面のない凝視をつづけているばかりで一言も口をあこうともしない。皆が、憎いような眼をして私ばかり見ているので、だんだん私は来ちゃあ悪かったのかしらんというような心持になって来た。
 婆は、しきりに気の毒がってかれこれとりなしに掛《かか》っても、子供等は一向そんなことには頓着なく婆がいわゆる、「しょうし(恥し)がっていますんだ」という沈黙を続けている。
 私には、なぜ子供等がこんなに黙り返っているのかいっこう訳が分らな
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