かった。それで、幾分蹴落されるような心持になりながらも、しいて微笑をしながら、
「父さんや母さんは? 淋しいだろう?」
と、一番大きい子に云うと、いつの間にか私の後に廻っていた中の子が耳の裂けそうな声で、
「ワーッ!」
とはやし立てた。
私は非常に驚いたと同時に、胸がムカムカするほど不愉快を感じた。けれども、もう一度私は繰返してみた。
「淋しいだろうね、だあれもいないで」
腹は立ったけれども、私にはまだ彼等を憫《あわれ》むくらいの余裕はあった。
年中貧しい暮しをして、みじめに育っている子に、優しい言葉の一つもかけて遣りたかったのだ。が、それにも拘らず、
「おめえの世話にはなんねえぞーッ」
と云う、思いがけない怒罵《どば》の声が、私の魂を動顛させる鋭さで投げつけられたのである。
私は目の奥がクラクラするように感じた。
一瞬間に、今まであった総てのことが皆嘘だったような気もする。
私は、何をどうすることも出来ずにただ立っていた。けれども、心が少し静まると、ジイッとしていられないほどに不可解な憤怒や羞恥が激しく湧き立って、非常に不調和な感情の騒乱は、肉体的の痛みのように、苦しい心持にさせるのであった。
私は寛容でなければならない。彼等から一歩立ち勝った者の持つ落着きを保ちつづけようとする虚栄心が臆病になりきった心を鞭撻した。けれども空虚になったような頭には何を判断する力もなくなり、歯がガチガチと鳴っている。
この意外な有様に、婆はすっかりとちってしまった。そして子供の手をグングン引っぱって下に坐らせながら私には、詫びるような眼差しで、
「行きますっぺなあ、おめえ様。礼儀もなんも知んねえで、はあどうも」
と立ち上った。私も、もう帰るだけだと思った。
婆の先に立って子供等に背を向けたとき、私は自分の上に注がれている憎しみに満ちた眼を思い、野獣のような彼等の前に、どれほど私は臆病に弱く醜く立ち去ろうとしているのかと思うと、このまま消え失せてしまいたいほどの恥しさに、火のような涙が瞼一杯に差しぐんで来たのである。
私はしおしおと杉並木の路を歩いていた。誰に顔を見られるのも、口を利かれるのも堪らない心持でのろのろと足を運んでいると、いきなり後から唸りを立てて飛んで来た小石が、私の足元で弾んで、コロコロと傍の草中へ転がり込んでしまった。
シュウという音が鼓膜を打つや否や、私は反動的に身をねじ向けて見ると、まだすぐ近くの甚助の家の前に、子供等が犇《ひしめ》き合って立っている。
年上の子供は、私が振向くと、手に持っていた小石を振り上げて、威《おど》すように身振りをした。
私は、子供等の方を見ながらのろのろと杉の木蔭へ身を引きそばめて、二度目の襲撃を防ごうとした。
私は、手触りの荒い杉の太い幹につかまりながら、訳もなく大きな涙をポロポロとこぼしたのである。
三
「何ということだ!」
あのときの様子を思い出すと、私の顔はひとりでに真赤になった。なぜ私は、あれほどの恥辱を受けなければならなかったか? 私が彼等に対して云ったことが悪かったか? 私は確かに悪いことは云わなかったというよりほかはない。私は同情していたのだ。ほんとうに淋しいんだろうにと思っていたばかりだ。私にはちっとも嘘の心持はなかった。どこからどこまでも正直な気持でいたのではないか?
私にはどうしても彼等の心持が解せない。それ故あの罵りに対しての憤りはより強く深くなるばかりなのであった。
私は、お前方から指一本指される身じゃあない。
人が親切に云ってやったのに石までぶつけて、それで済むことなのか?
私はほんとにあの子供達が厭であった。そして、またいつものようにあのときのことがじき村の噂に上って小《ち》っぽけなおかしい自分が、泥だらけの百姓共の嘲笑の種に引っぱりまわされるのかと思うと、一思いに、あのこともあの子供達も一まとめにして、押し潰してしまいたいほどの心持がしたのである。御飯も食べられないほど私はくさくさした。
けれども、夕方近くなって、小作男の仁太というのが来て二時間近くも話して行ったことは、私に或る考えの緒口《いとぐち》を与えた。
彼は、私共の持畑――二里ほど先の村にある――に働いている貧しい小作男で、その男が来ればきっと願い事を持っていないことはないといわれているほど、困っているのである。
私は彼の衰えた体をながめ、もう何も彼も運だとあきらめているよりほかしようのないような話振りを聞くと、フト甚助のことを思い出した。
甚助はやはりこの仁太のような小作男だ。
ああ、ほんとに彼等はこんな気の毒な小作男の子供達であったのだ! この思いつきはだんだん私の心から種々の憤りやなにかを持ち去ってしまった。
けれども、後にはよく考えなければならない、悲しい思いが深く根差したのである。
あの男の子等は、今まで、その両親が誰のために働いているのを見ていたのか?
彼等の収穫を待ちかねて、何の思い遣りも、容赦もなく米の俵を運び去ってしまうのは如何なる人種であるのか?
実世間のことを少しずつ見聞して、大人の生活が分りかけて来た彼等男の子等の胸は、両親に対する同情と、常に自分等よりもずっとよけいな衣類や食物を持っていて、異った様子をし、異った言葉で話す者共へ対しての憎悪と猜疑《さいぎ》で充ち満ちていたのであろう。
俺らが大事の両親に辛い思いをさせ涙をこぼさせるのは、あのいつでもその耳触りの好い声を出して、スベスベした着物を着て、多勢の者にチヤホヤ云われている者共ではないか?
親切らしい言葉の裏には伏兵のあることを、いつとはなく半分直覚的に注入され、「町の人あ油断がなんねえぞ」と云われ云われしている彼等であろうもの、いきなり私が現れて、優しい言葉を掛けたからとて私を信じ得る筈はない。
彼等の頭には先ず第一に僻《ひが》みが閃いた。
「またうめえこと云ってけつかる!」
で、一時も早くこの小づらの憎い侵入者を駆逐するために、
「おめえの世話にはなんねえぞーッ!」
と叫んだのであった。
彼等はもう、いわゆる親切は単に親切でないということを知っている。
貧乏はどれほど辛いかを知り、その両親へ対して生々しい愛情、一かたまりになって敵に当ろうとする一方の反抗心によって強められた、切なる同情を感じているのである。
朧気《おぼろげ》ながら、真の生活に触れようとしている彼等に比して、私の心は何という単純なことであろう! 何という臆病に、贅沢にふくれ上っていることであったろう!
私はまちがっていたのだ。彼等総ての貧しい人々の群に対して、自分は誤っていた。
私は親切ではあった。けれども幾分の自尊と彼等に対する侮蔑とを持っていたのである。そして、自分自身が彼等から離れ、遠のいた者であるのを思えば思うほど一種の安心と誇り――極く極く小さな気のつかないほどのものではあったが――を感じていたということを偽れようか?
自分を彼等よりは、立派だと思ったことは、ただの一度もなかったか?
もちろん、私は意識しながら傲慢な行為をするほど愚かな心事を持っているとは思わないけれども、長い間の習慣のようになって、理由のない卑下や丁寧を何でもなく見ていたということは恐ろしい。
私共と彼等とは、生きるために作られた人間であるということに何の差があろう?
まして、我々が幾分なりとも、物質上の苦痛のない生活をなし得る、痛ましい基《もとい》となって、彼等は貧しく醜く生きているのを思えばどうして侮ることが出来よう!
どうして彼等の疲れた眼差しに高ぶった瞥見《べっけん》を報い得よう!
私共は、彼等の正直な誠意ある同情者であらねばならなかったのである。
世の中は不平等である。天才が現れれば、より多くの白痴が生れなければならない。豊饒《ほうじょう》な一群を作ろうには、より多くの群が、饑餓の境にただよって生き死にをしなければならないことは確かである。
世が不平等であるからこそ――富者と貧者は合することの出来ない平行線であるからこそ、私共は彼等の同情者であらなければならない。
金持が出来る一方では気の毒な貧乏人が出るのは、宇宙の力である。どれほど富み栄えている者も、貧しい者に対して、尊大であるべき何の権利も持たないのである。
かようにして、私は私自身に誓った。
私は思い返した。
自分と彼等との間の、あの厭わしい溝は速くおおい埋めて、美しい花園をきっと栄えさせて見せる!
四
私は、自分の生活の改革が、非常に必要であるのを感じた。そして、いろいろな思いに満たされながら、自分の今日までの境遇を顧みたのである。
私共の先代は、このK村の開拓者であった。首都から百里以上も隔り、山々に取り囲まれた小村は、同じ福島県に属している村落の中でも貧しい部に入っている。
明治初年に、私共の祖父が自分の半生を捧げて、開墾したこの新開地は、諸国からの移住民で、一村を作られたのである。南の者も、北の者も新しく開けた土地という名に誘惑されて、幸福を夢想しながら、故国を去って集って来た。けれども、ここでも哀れな彼等は、思うような成功が出来ないばかりか、前よりも、ひどい苦労をしなければならなくなっても、そのときはもう年も取り、よそに移る勇気も失せて仕方なし町の小作の一生を終るのである。それ故彼等は昔も今も相変らず貧しい。
そればかりか近頃では、小一里離れているK町が、岩越線の分岐点となってから、めっきりすべての有様が異って来たので、この村も少からず影響を蒙《こうむ》った。そして、だんだんと農民の心に滲《し》み込んで来る、都会風の鋭い利害関係の念と彼等が子供の時分から持っている種々の性癖が混合して、毎日の生活がより遽《あわただ》しく、滞りがちになって来たのである。
村の状態は決して工合が好いとはいえなかった。長い間保って来た状態から、次の新しい状態に移ろうとする境の不調和が、全体を非常に貧しく落付かなくしているのである。
けれども祖父はもう十七八年前に亡くなって、ちょうど移住者もそろそろ村に落着いて来、生活が少しずつ、楽になったときの様子ほか見ていない。
彼は、大体に満足して、村の高処《たかみ》に家を建て、自分等夫婦はそこに住んで、田地の世話を焼いたり、好きな詩を作ったりして世を終った。
それで、後に残った祖母も、故人の志を守って彼の遺した家に住み、田地を監視し、変遷する世から遠ざかって暮しているのである。
一年中東京にいた私は、夏になるとK村の祖母の家に行くのを習慣にしていた。そして、二月ほどの間東京では想像もつかないような生活をしているのである。
私は村中の殆どすべての者に知られている。東京のお嬢様が来なすったと云って、野菜だの果物だのを持って来る者に対して、土産物を一つ一つ配ってやらなければならない。朝から小作男の愚痴を聞き、年貢米を負けてやる相談にのる。そして、かれこれ云うのが面倒なので、さっさと祖母にすすめて許してやると、大変慈悲深い有難い者のように私共を賞めたてる。お世辞を云う。
私は皆にちやほやされながら、朝夕二度の畑廻りをしたり、池の慈姑《くわい》を掘ったり、持山を一日遊び廻ったり、すっかり地主の馬鹿なお孫さんの生活をしていた。誰からも、干渉がましいこと一つ云われず、存分に拡がっていたのである。
それでも私は、尊《たっと》そうにされていたことなどを思うのは、今の私にとっては真《まこと》に恥しい。我ながら厭になる。
何としてもどうにかして、村人の少しなりとも利益《ため》になる自分にしなければならない!
それで、私は心のうちに種々の計画を立てた。そして、土地の開墾などということは――もちろんそこが人間の生活すべきところとして適当でありまた、栄える希望もあるところならばよいけれども――冬が長く、地質も悪いようなところへ、貧しい一群を作ったとしても、やはり非常に尊いことなのであろうかなどというような疑問がしきりに起ったのである。
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