声に、他の子供等はどのくらい仰天したことだろう!
彼等は我を忘れて、いろいろな叫び声を上げながら、狭い小道を犇き合って、我勝ちにこの飛んでもない場所から逃げ出した。
急に、ヒッソリ閑としてあたりには木立ばかりがざわめいて、少しばかりの「きのこ」のささった笹が、投げ捨てられたまま、揺れる二本の足の下で、風に煽られていた。
子供等の先達で、村の男共はほとんど皆墓地に集った。多勢一塊りになり、努めて付元気を出しながら嘘であれかしと近寄って見ると、何事だろう!
ほんとうに首縊りだ。
顔を手拭で包みガックリとうなだれた男が一本の繩に吊る下って、壊れた人形のように他愛もなく体中でブラブラ揺れているのではないか!
雨にぬれてピッタリと肌に貼りついた着物を透して、気味悪く固まった筋肉が明かに輪郭を見せている。
七八本ずつ粘りついて刷毛《はけ》のようになって突立っている髪の毛の上には、落葉だの芥だのが附いている。
彼等は今更胸を打たれた。
「一体《いってえ》誰《だん》だっぺ?」
皆はしきりに思い出そうとしたけれども、着物の模様にも体の形にも見覚えはなかった。
もう七年前に或る百姓女が同じ墓地内で縊死したのを見てから、トンとこんな恐ろしいことには出会わなかった農民共は、取りあえず何をどうしたら好いのか、サッパリ様子が分らなかった。
蓑だの笠だので雨支度をした多勢は、黙り返って茫然《ぼんやり》と、どうしても玩具とほか思えないように風に弄ばれなぶられている人間の体を見ていたのである。
赤土が雨に流されて、幾条も縞の出来た所には蹴返されて泥まびれになった木の切株と、ふやけた片方の草履がころがり、地上から三四尺隔っている死人の裾から落ちる雫で、下にはポチポチと丸い小さい穴が沢山出来ている。
「早くおろさにゃあなんねえ」
皆は同じようにそう思いながらまた、同じように誰か云い出す者を待っていた。
大濤のような音を立てて、風が梢から梢へと吹きめぐって来る毎に、激しく動く体の重味で、あの細い繩がプッツリ切れ、ドサッというと一緒に死骸が落ちて来でもしようものならという恐れが、皆をすっかりおびえさせていたのである。
手柄顔をした子供達は、自分をいつも擲ったり叱ったりする「おっかねえ父親《ちゃん》」や「兄《あんに》い」が今日はまたどうしたことか、手も出さないでただ立っているだけだという不思議な様子にすっかりびっくりした。
彼等は片隅に集って、
「ちゃんみたえな大人でもおっかねえんだなあ。――」
「ほんになあ、やっぱりおっかねえと見えら。――」
とささやきながら大人共と死人とを見くらべていた。
男の死骸が下されたのは、それからやや暫くして村に一人の巡査と墓掘りが来てからのことであった。
突張った体が戸板の上に置かれ、濡れて解き難くなった手拭を長いことかかってどけると、傍に立っていた一人は、思わず飛びしさって、
「新さんでねえけえ? う? 新さんでねえかよーッ!」
と、気違いのような声で叫んだ。
急に周囲はどよめいて、沢山の頭が肩越しに一つの顔を覘き込んだ。
「や! 新さんだぞ! 新さんだぞ、こりゃあ!」
「どれ? ちょっとどいて見ね。や! ほーんによ! こりゃあ一体あーんとしたこった!」
「あげえな親孝行息子をとうとうあの鬼婆奴が、こげえな情ねえざまにしくさった! さっさとくたばれっちゃ、ごうつくばり奴!」
皆は、単純な心で死ということを恐れているところに、あんなに人の好いおふくろ思いの新さんが、昨日まで口も利いていたのが僅かの間にもうこんな情ない様子になっているのを見ると、もうもうすっかり気落ちがしてただ無茶苦茶におふくろが憎らしい。口々に、まだ血気の新さんがどんなにおふくろに酷《いじ》められながらも親思いだったかということを賞め立てた。
「告発したら何という罪名になるでがしょうな? 殴打致死《おうだちし》でもあんめえし……」
集った中での口利きが、得意らしく云ったけれども、まだ年若な無経験らしい巡査は、まごつきながら、かすれた声で早く家の者を呼べとせきたててばかりいて、そんなことには耳もかさない。
一人の男は早速、大きな蓑をガサガサガサガサいわせながら耕地を越えて、水車屋の方へ馳けつけた。
水車屋の家は、向うに小さく見えているのに、行った限《ぎ》りさっきの男はなかなか戻って来ない。皆はやはり新さんと同じような生れ付きで、人が悪く思えない性分だった親父のことなどを話しながら、折々手をかざしては、畑道を動いて来る人影に気をつけていた。
あまりおそいので、二度目の使が立とうとしたときである。往還の向うから一人の婆が半狂乱の風をしてころがるように馳けて来た。
「やあ誰だべ? あげえにかけてるわ!」
「ほんになあ! 婆さまの癖にえれえ勢なこんだ」
多勢の注目の中に馳け込んだのは、善馬鹿のおふくろである。
まあ一体何というなりをしているのだろう?
白髪が蓬々さかだって、着物の袖が片方千切れているのも知らないように、喉元でハーハー喘いでいるのだもの……。
「ま、善がおっかあでねえけえ。どうしただ。何いそげえに狼狽《あわ》ててんだ?」
「誰《だん》だえ? う? 首縊りしたなあ誰だえ?」
婆は、真青な顔をして、皆を突きのけながら掛っていた菰《こも》をまくろうとした。
「あんすんだ。新さんよ! 水車屋の新さんが可哀《かわえ》そうにこげえなざまになっただよ!」
「気い落付けて、ゆっくら話しても分んでねえけえ」
震えている婆を皆はなだめに掛った。
「何に? 新さん? 水車屋の新さんなんけ?」
彼女は、がっかりしたようにためいきをついた。そしてしばらくだまっていたが、急に顔をしかめると、
「俺らげの善もな行方が知んねえ。そんに、今朝俺らに、どこの奴だか知んねえが、おめえの馬鹿が隣《となん》の村の、沼っぶちとかで妙な風してんのー見たぞと云って来たで……」
と云いながら、ポロポロ涙をこぼした。
死ぬ筈はないから安心しろといくら慰めても、今度はきっと何か変事があったような気がしているからどうぞ死骸だけでも捜してくれと、婆は皆の前へ土下座をするようにしてたのんだ。
「あれの面倒よく見て置きでもしたら、俺ら案じねえ。けれど碌に飯も食わせねえでいただから、俺ら恐ろしい。きっと死んだら俺ら怨んべえ。どうぞ、どうぞ、こげえにねがうもん! 聞いてくんろーよ!」
皆は、やはりこの二三日前からの天気は只事ではなかったと思った。
「一夜のうちに、二人も人間がくたばるたあ、何事だべ」
「解くに解かんねえ前世からの因縁事あ、恐ろしいもんだ」
「まったくおっかねえもんだ。が、俺《おい》らの力じゃどうにもしようがねえだ、南無阿彌陀仏……」
「せめても極楽往生させてえもんだなあ」
集っていた者の半分は、婆を連れて、陰気にのろのろと、離れて行った。
風が吹くたんびに、菰の端がめくれて、濡れしょぼけた着物だの、足の先だのの見える死骸の番をして、墓場の中に取り残された者共は、ほんとうに真面目な心持で、よく寺の和尚《おしょう》が話す、前世の宿縁とか、極楽とか地獄とかいうことを考えると、何でも黙って堪えていた新さんは、こうして死んで行ってから、自分の見て来たこと、されて来たことを一つ残らず、人間一人や二人はどうでも出来る者に云いつけるのじゃあるまいかと、思われて来た。
そして、親切にした者には好い報いが来るように、ひどくした者にもそれ相当な恐ろしい報いが降って来そうだ。また新さんは降らせる力を持っているらしい。
「天道様あ罰《ばち》いお下しなさんぞ」
とよく云い云いした言葉も、思いあたる。
皆は、こんなにも偉かった新さんに、自分達はあんまりよくつくしてやりはしなかったと思うと、堪らなくすまなく、こわくなった。
「新さん。よーく覚えててくんろよ、俺らおめえを憫然《ふびん》に思ってただが、俺ら貧乏だ、どねえにもすっこたあ出来なかっただかんな?」
動かない菰のもり上りに向って、てんでんの心は、おそるおそるささやいたのである。
十九
村中は全く混乱した。
聞くもいやらしい首縊り!
まして、あの悪い所といったら爪の垢ほどもない新さんが、そんな情ない死にようをしようとは……。
それにまた、善馬鹿まで死んだらしいというのだもの。
一体どうしたということなんだろう? こうなって見ると、こないだ中の空模様は、やっぱり凶《わる》い前兆《しらせ》だったと見えるなあ……。
皆が同じことばかりを云った。そして、思いがけないときに、思いもかけない人にとり付く死神。ときどきは自分達も狙われることがあるに違いはないおっかない死神が、今は直ぐ体の傍に近よって来ているような気がして彼等は、戸外へ出るのさえもいやがったのである。
私は、この話を聞いたとき、どうしてもほんとにされなかった。
私の知っている中で、今日までに死んでしまった人は指を折って数えるほどほかない。私が生れたときのことを知っている人は、今も私を赤ん坊のように思って可愛がっていてくれる。そして、丈夫で勢よく働いているじゃあないか?
それだのに、善も新さんも、私がほんとうに知ってからまだ二月ほか経たないのにもう死んでしまった。しかもこんなに急に、こんなに気味悪く……。
一昨日《おととい》まで私は善馬鹿が歩いているのを見ていた。
ついこないだまでは、「お早う。今日は工合はどう?」と新さんに挨拶していたのに、その新さんはもう死んで冷たくかたくなって、直ぐ埋められてしまおうとしている。――
私は、どんなに辛くともいやでも、死ぬなどということは思ってもみない、また思いようないこのごろの生活を考えた。
広い世の中では一日に幾人人が死んで行くだろう? 十人死に、百人死に、千人死んでいるかもしれない。が、その中に私は生きている。しかもこうやって達者で、することも沢山あり可愛がられて生きている。
私には総て消極的な考えが出来ない。
私はどんなに困ったことに会っても――もちろん私の狭い天地で湧いたり消えたりすることは何でもない下らないことなのだろうけれども――どうにかやってしまう。
死のうと思うより先ずどうして突き抜けようかと思う。そして、私は自分の頭の乾《ひ》からび鈍くなり、もうほんとうに生きている意味がなくなるまでは、どんなにしてでも生き抜こうと思って、思い定めているのである。それ故私は、昔の婦人達のようにすぐ命を捨てることは、どんなにしても出来ない。
私の生活に意味のある間は死ねない。
けれども私の今直ぐ傍では、こうやって二人も死んでいる。而も皆|尋常《なみ》の死にようをしたのではないじゃあないか?
私が若し、あの夜あの林へ行きかかって新さんの死のうとするのを助けたとしたら?
私は一生懸命に止めるだろう。体をなおしてまた働くようにと云うだろう。けれどもそれでほんとうに助けたといえるだろうか。私には、どうしても、ただあのとき、あの木の枝から新さんを離しただけのことじゃあないか。
私は新さんの一生を守って暮すことは出来ない。年中心を励ましつづけてはいられない。そして、僅かばかり療治され、金をもらい、貧しく辛く淋しい世の中に突き出されたところで、何がうれしかろう。
「俺れは救われた。けれどもどうしようというのだ? 前よりも辛い思いをし、苦しみもがいて生かして置かれることはちっとも欲しくないのだ! お前は一人の人間を助けたということに満足して、いつまでもたのしむだろうが、俺れはいつでも、『あのとき死んだら』と悔まなくちゃあならぬ」
私はほんとうに、若しあのとき新さんを助けたところで、一生を確かに強く、虐げられずに送らせることが出来なければ、何でもないことになってしまう。
死のうとする者は救《たす》けるべきだという常套的な感情に支配されて、その者の一生を考えるより先に、自分の心に満足を与えるのじゃあないか?
私はここに思い至ると、今までのすべてがグザグザに壊《くず》れてしま
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