二滴垂らした水を遣ったのだけれども、彼は喜んで酔っていたのである。
 或る日の午後、私共は茶の間の縁側の傍に坐って、胡桃《くるみ》を挽いていた。すると耕地の方から、グルリと廻って庭木戸の中へノッソリ入って来た男がある。びっくりして見ると、善馬鹿だ。
 私は何だか薄気味悪くなって、少し奥の方へいざり込んだ。奥にいた祖母やその他の者も出て来て、半ば気味悪く半ばめずらしそうに、だまって庭に立っている善を見ていると、暫くして彼は低い声でかなりはっきりと、
「酒えくんろー」
と云った。
 下女は直ぐ立って行って、薄く酒の香いのする水を、破《か》けた飯茶碗に入れて来た。そして遠くの方から手をのばして、
「ホラ、ここさ置くぞ」
と縁側の端に置いてやった。
 善馬鹿は下女の手が引っ込むか引っ込まないかに、引ったくるようにして、茶碗をとった。そして、フーフー鼻息を立てて、喉仏をゴクゴクいわせながら一滴もあまさず飲んだ後を、すっかり舐め廻した。
 空っぽの茶碗を持ったままいつまでもそこに立っている。下女は穢いから早く逐い出しましょうと云ったけれども祖母は、狂人や何かにひどくすると、あとできっと「あた(仇)
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