も何にもたしかな物が写っていないとき、「どうしているの?」と云われたら恐らく、答えに窮するにきまっている。
 私は困ったことをしたと思いながら様子を見ていると、彼は暫くたってからのろのろと、顔を私の方に向けた。そして、非常に突出した、瞬きをすることの少い目玉を据えて、私を見ているような位置になった。
 私も彼を見ていた。私はほんとに注意して、観ていたのである。
 そうすると、だんだん彼の顔付が凄くなって、仕舞いには、「彼の感じ」がそろそろと私の顔に乗り移って来たような気持がして来た。
 もう、私は意地も我慢もなくなった。そして、一散走りに家へ帰ると、力一杯顔を洗い、鏡を見つめて、ようよう気が休まったのである。
 最初の試みは、私の例の幻覚ですっかり失敗してしまった。けれども、それから二度目三度目になると少しずつ彼に馴れて来た。
 が、やはりだまったまま一緒に立っているか、何か云って彼の注意力をためして見るばかりで、一向進むことはない。
 私は彼の囲りを、堂々廻りしているような工合であった。
 善馬鹿の子に対しては、全く何も出来なかったけれども、他のことは少しずつ好い方に向いて行った。

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