くれた譜本を持って、小学校に行った。そして、たった独りいたまだ若い先生にオルガンを貸して下さいと頼んだのである。
今でも思い出す顔の丸い、目の小さい人の好さそうなまだ二十三四ぐらいだった教師は、私の様子をジロジロ見下しながら、きっぱりと貸せませんと云った。
誰か一人に貸すと、他の者にたのまれたとき断れなくなる。そうすると一時間も経たない内にオルガン一台ぐらいめちゃめちゃにされてしまうのだからと、いろいろ理由を説明して拒絶したけれども私はきかなかった。
私は黙って立っていた。
先生もだまって立っていた。
そして暫くの間立っていた先生はやがて少し腹を立てたような声で、
「一体あなたはどこの人なんです?」
と云った。
「私? 岸田の者だわ……」
たった十ばかりだった私はそのとき何と思ったのだろう!
「岸田の者だわ……」
私はどのくらい落付いて自信あるらしく云ったことだろう! 名を聞けばきっと貸すということを明かに思って、随分とのしかかった心持で微笑さえしたではないか?
「あ! そうですか。じゃあかまいません。さあお上りなさい」
と、導かれてどういう満足でもってその鍵盤に指を置い
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