天道様を拝んでいたことかと思うと、飛んでも行きたいほどのなつかしさを覚えた。
それだのにこの広い世の中に、たった二人きりの母子《おやこ》でありながら、この頃のように訳も分らないことで、情ない行き違いをしていなければならないのを思い、自分のもうとうてい癒りそうにない病気を思うと、ほんとうに生きている甲斐もなくなったように感じられた。
自分がいておっかあの邪魔になるなら、今すぐからでもどこかへ行ってもしまうけれど、どうせは死ぬのも近いうちのことだろうのに、どうぞたった一度で好いから七年前に呼んでくれたように「新や!」と云ってくれたら、どんなに嬉しかろう!
新さんは、北海道で時蔵という男の所にいたとき、仲間の男で十九になるのが急に病《わずら》いついて、たった三日で死んだときの様子を、マザマザと思い出した。
その男は死ぬ日まで、
「阿母《おっか》さん! 阿母さん、何故来ないんだ? 俺りゃ待ってるんだぜ」
と云いながら、生れてから別れるまで、ついぞ大きな声さえ出したことのないほど優しい母親のことばっかり話していた。そして、もういよいよというときに、一度|瞑《つぶ》っていた眼を大きくあけて、両手を一杯に延ばすと、
「阿母《おっか》さん!」
とはっきり叫んで、そのまんまとうとう駄目になってしまったときの、あの鋭い声、あの痩せた手が新さんの目について離れなかった。
どこの山中、野の端に野たれ死をしても、いまわの際に「おっかあ!」と呼んで死ねる者は、何という幸福なことか。新さんは、真面目に自分の死ということを考えていたのである。
或る殊に暑苦しい日、朝から新さんは身動きもできないほど弱っていた。
五月蠅《うるさ》い蠅を追いながら、曇った目であてどもなく、高く高くはてもなく拡がった空を見ていると、どこからか飛び込んで来たように、自分はもう生きていられない身だということを確かにハッキリと感じた。
新さんは、妙に笑いながら、ムズムズと体を動かして顔を撫で廻しながら、
「おっかあー!」
とやさしい声で呼んだ。
裏口の水音がやんで、濡手のままおふくろは仏頂面《ぶっちょうづら》をして、
「何だあ?」
と入って来た。
「いそがしかっぺえがちょっくら坐って、話してえがんけえ? 俺れえ話しときてえことがあるんだがなあ」
「何だ? 早く云ったらええでねえけえ」
「ま、ちょっとお坐りて。
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