んだりした経験の一度や二度、持たない者のないような村人のことであるから、ただそれだけのことなら、皆の茶話にも出ないで消えてしまっただろうが、新さんが名うての正直者で、おふくろがまた、これは名代の慾張りでいろいろ評判を立てられている女なので、皆の好奇心を煽ったのである。何かこの裏には魂胆があるといって、私の家へ来るもので新さんの噂をしない者はないほどだった。
 私は、その新さんという男には、たった二度ほか口を利いたことがない。随って、どんな男だか、はっきりは分らないが、内気そうな低い声で、大変丁寧に口を利く人だと思っていた。私にも、あの男がそんなことはしない、また出来ないと思われたけれども、彼の実のおふくろが家へ来るたんびに、ほんとうに怒って真赤になりながら、
「俺《お》らげの斃《くたば》り損い奴にもはあ、ほんにこまりやす。おめえさまお聞きやしただべえが、飛んでもねえことをしでかしやがってからに……」
と、新さんがその豆を売った金で、町の女郎屋に五日とか六日とか流連《いつづ》けたということを、大きな声で罵った。で、私は親身の親の云うこともまさか嘘だとも思えず、さりとて新さんがそんなことをしたとも思えないで、半信半疑のうちにこのことのなりゆきを見ていたのである。
 一体、水車屋は、二年前に亭主が亡くなってからよくない噂ばかり立てられていた。
 その時分からもう、北海道に出稼ぎに行っていた新さんを呼びよせもしないで、自分独りですべてを取りしきっているのも皆陰に操る者があるので、隣村の伝吉という同じ水車屋が、僅かばかりの桃林も何も彼も自分の物にして、新さんを追い出しに掛っているということは、誰一人知らない者がなかった。
 新さんは、十六の年から北海道にやられて、この五月になるまで、七年の間女房を持てるだけ稼ぎためたら帰って、おふくろにも楽をさせてやり、家の中をちゃんとしたいということばかりを楽しみに、悪遊び一つせずに働いていたのであったそうだ。
 ところが運悪く腎臓病になり、医者にすすめられたので、久し振りに帰って来たときには、八十円の金を持って来た。
 若いに似合わず感心なことだと、私の祖母なども祝いをやったというほど村中の者に尊敬されていたのである。
 けれども、一度借金のことから取り上気《のぼ》せて殆ど狂気になったことがあってからというもの、五厘でも半厘でも金のことに
前へ 次へ
全62ページ中36ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング