また考えることも出来ないためだ。そういう彼等を見ると、私はいろいろなことを考えさせられた。
「今度のことは好い結果を得るだろうか?」
 これが第一私の疑問である。而も直接自分自身が苦しめられている、疑いなのである。
 彼等はただ貰いさえすれば好い、くれる分には、どんな物でもいやだとは云わない。
 けれども、一枚着物を貰えば、前からの一枚はさっさと着崩して捨ててしまい、よけいな金が入れば下らない物――着ることもないような絹着物だの、靴だの帽子だのという彼等の贅沢品をせっせと買って、ふだん押えられている、金を出して物を買う面白さを充分に貪ってしまうのである。
 それ故、五円あろうが十円あろうが、つまりは無いと同じことで、その金で買った物も、しばらくして困りきっては町へ売ってしまう。
 金も、物品も、その流通する間をちょっと彼等の所へ止まるに過ぎない。
 年中貧しくて、彼等にはただ、ああいう着物も買ったことがあったっけ、あれだけの金も持ったことがあったっけがという記憶だけが、それもぼんやりと遺るばかりなのである。
 私はこのごろになって、ほんとに難かしいものだということをつくづく思っている。寛《ゆる》くすればつけ上る、厳しくすれば怖《お》じけて何を云っても返事もしないようになるのは、彼等の通癖である。
 婦人連が彼等にめぐむことに若し成功したら? ほんとうに、彼等の生活の足しになることが出来たら? それはほんとうに結構なことである。
 けれども、私にとっては、ただ単純に結構なことではすまないのである。
 私は、自分をこの村に関係の深い、この村に尽すべきことを沢山に持っている人間だと思っている。そして、少しずつでもしだした仕事は、失敗しそうになっている。
 そこへ、遠くはなれて、てんでんには別に苦しみもせず、さほどの感激も持たない人達のすることが、彼等の上に非常に効果があるとしたら、この自分は、どこまで小さな無意味な者だろう。
 私は、彼等とはまるで異った心持で、彼等のいわゆる「福の神の御来光」を待っていた。
 ところへ、突然思いがけない事件が持ち上って、村中の者の心を動かした。
 それは水車屋《くるまや》の新さんが豆の俵を持ち出して売ってしまったということである。その二俵の豆は、もちろんよそから粉にするように頼まれたものなのである。
 親の金を持ち出したり自分の家の物を盗
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