たか!
 今になって私はその正直だった若い教師を非常に気の毒に思うと同時に、私自身の態度の心持を堪らなく恥しくすまなく感じない訳には行かない。
 小さい、ものも分らない私にまで、自分の理由のある出言を撤回したあの教師が、あの若さでありながらふだんからどのくらい、自己を枉《ま》げることに馴らされていたかと思うと、ほんとに堪らない。
 若し今の私がその教師だったら?
 私はどうしたってききはしない。ましてそんな人を呑んでかかるような態度を見たら、どのくらい怒るか分らない。かえって叱って叱って、叱りとばして追い帰すだろうのに――。
 私は涙がこぼれそうになった。
 自分は欠点だらけな人間だけれども、そんな恥しい思い出にせめられるのは情ない。
 重く沈んだ心持になって、むこうの窓を眺めていると、子供達の頭の波をのり越えて、一つの顔が自分を見ているのに気が付いた。
 その顔は、殆ど四角に近いほど顎骨が突出て、赤くムクムクと肥っている。
 非常に無邪気な感じを与える峯の太い鼻。睫毛《まつげ》をすっかり抜いたような瞼がピチピチとしている眼は、ふくれ上った眼蓋《まぶた》と盛り上った頬に挾まれて、さも窮屈そうに並んでいる。
 私は、正直そうなどちらかといえば愚直だといえるほどの顔をまじまじ眺めていると、益々あの自分の我儘に己を枉げてくれた教師と非常に似ているように思えて来た。
 で、私は立ち上った。そして、微笑を浮べながら丁寧なお辞儀をした。
 私は満足した。けれども、若者は非常にまごついたらしかった。妙な顔をして、大いそぎで窓わくのそばから離れて、彼方に見えなくなってしまったのである。
 彼は私がふざけたのだと思ったかもしれない。
 けれども、これで、今もなおどこかの空の下で今この同じ日の光りを浴びながら生きているあの日の若い教師に対して、自分はしなければならなかったものを、ようやく果たしたような気がした。
 私はまた幾分か心が安らかになった。そして元来た道を戻って、小川の所へ行って見た。いつも誰かが魚をすくっているそこに今日は甚助の子供達が来ていた。
 子供達は熱心にしていたけれども、流れの工合が悪かったと見えて、網に掛るものは塵《ごみ》ばっかりである。
 暫くだまっていた私はフト、
「ちっともとれないのね」
と云った。
 そのとき、初めて私がいるのに気が付いたらしい子供達は皆ニ
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