しかかって、小虫が露にぬれながら這っている。
桑の若葉の葉|触《ず》れの音。
勇ましく飛び立つ野鳥の群。
すべては目醒め動いている。
何という好い朝だろう!
私は、喜びに心を躍らせながら歩いて行った。畑地を越え、草道を通り、暫くすると私は村にただ一つの小学校のそばに出た。
そこではもう授業が開始されていて、狭い粗末な教室の中には、小さく色の黒い子供が僅かずつつまっているのが、外から見える。
私は誰一人いない庭の芝草の上に坐りながら自分の小学校時代を思い出した。種々の思い出が、沢山な友達の面影や教師の様子などをはっきりと思い浮ばせたのにつれて、ちょうど四年ぐらいの時分、ここへ来るとよくこの学校のオルガンを借りたことを思い出した。
あそこいらの部屋らしかったと思いながら、一人の子供が立ったきり答に窮してぼんやり黒板を見ている教室の中を眺めていた。
すると、だんだん記憶がよみがえってくるにつれて、最初に自分がオルガンを借りたときの様子がありありと心に帰ってきたのである。
私はそのとき、白い透き通るリボンで鉢巻のようにし、うす緑色の着物を着ていた。
外国にいた父から送ってくれた譜本を持って、小学校に行った。そして、たった独りいたまだ若い先生にオルガンを貸して下さいと頼んだのである。
今でも思い出す顔の丸い、目の小さい人の好さそうなまだ二十三四ぐらいだった教師は、私の様子をジロジロ見下しながら、きっぱりと貸せませんと云った。
誰か一人に貸すと、他の者にたのまれたとき断れなくなる。そうすると一時間も経たない内にオルガン一台ぐらいめちゃめちゃにされてしまうのだからと、いろいろ理由を説明して拒絶したけれども私はきかなかった。
私は黙って立っていた。
先生もだまって立っていた。
そして暫くの間立っていた先生はやがて少し腹を立てたような声で、
「一体あなたはどこの人なんです?」
と云った。
「私? 岸田の者だわ……」
たった十ばかりだった私はそのとき何と思ったのだろう!
「岸田の者だわ……」
私はどのくらい落付いて自信あるらしく云ったことだろう! 名を聞けばきっと貸すということを明かに思って、随分とのしかかった心持で微笑さえしたではないか?
「あ! そうですか。じゃあかまいません。さあお上りなさい」
と、導かれてどういう満足でもってその鍵盤に指を置い
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