がする。そして、コソコソと出来るだけ彼の目から避けて通り過ぎながら、心のうちには自分が何か彼にしなければならないという感情と、この上もない気味悪さが混乱した、大嵐が吹いているのであった。
万一どんなか方法によってこの白痴だと思われている子のうちから、何かの輝きが見出される筈であるのを、傍の者が放擲《ほうてき》してしまったばかりで、一生闇の世界で終ってしまうようなことがあれば、ほんとに恐ろしいことである。
今まで死なないところを見れば、どこかに生きる力は持っているのだ。
十一年保っていた命の力は大きいものである。ましてここいらの、ほんとに人間を生長させるには不適当なようなすべての状態にある所では殊にそうである。
空想ではあろうけれども、私は彼の霊と通っている何かが必ず一つはあるだろうということを思い、それに対しての彼は聰明なのじゃあないかなどと思った。
彼の親父は人間の仲間では気違いである。けれども犬と彼とはどれほど仲よく互に心を感じ合っていることか。
白痴の心は私にとっては謎である。分らなければ分らないほど、私は何かありそうに、どうにかなりそうに思わずにはいられなかったのである。
七
まあ何という素晴らしい。
朝だ!
はてしない大空の紺碧の拡がり、山々の柔かな銀青色の連り。
靄《もや》が彼方の耕地の末でオパール色に輝いている。
あらゆる木々の葉が笑いさざめき歌っている上を、愛嬌者の露が何という美しさで飾っていることだろう。御覧! お前の大好きなお天道様は、どんなに見事に光り輝いていらっしゃるか!
ほんとに立派なお姿でいらっしゃる。
私は、昨日も今日も同じに、円く燦《きらめ》き渡って動いていらっしゃるのを見ると、堪らなく嬉しくなって来る。
「お早うございます、御天道様!
いつも御機嫌が好さそうでいらっしゃいますね。
私もおかげさまで、こうして達者でお目に掛れるのは有難う存じます。
どうぞ今日もまたよろしくお願い致します。
私のりっぱなお天道様!」
風は、木々の葉の露を払い落し、咽《むせ》ぶようなすがすがしい薫りをはらんで、むこうの空から吹いて来る。
森の木々には小鳥がさえずり、家禽の朝の歌は家々の広場から響いて来る。
道傍のくさむらの中には、蛇いちごが赤く実り、野薔薇の小さい花が傍の灌木の茂みに差
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