ったになって、胸が悪くなるような臭気をあたりにまき散らす。彼は「善馬鹿」という気違いなのである。もうかれこれ五六年前に、気が変になってからはこの村にある家へはよりつかずに、村中を廻って歩いて、行く先き先きで筵《むしろ》を一枚貰ってはその上に寝て暮しているのである。
 どうかして気に入ったところがあると、幾日でも追い立てられるまでは、木蔭などにぼんやりすわって、犬の蚤を取ってやったり、自分がすわったまま手の届くだけ草を一本のこさず抜いたりしている。
 犬がむしょうに好きで、あばれることなどはちっともないので、村の者共は彼の姿を見かけさえすると捕えて、罪なわるさをするのであった。
 そのときも彼はどこかへ四日も行ってやっと帰って来たところなのである。彼は大変疲れたような気がしていた。すぐそこにころがりたいような心持でここまで来ると、友達の犬に見つかって、早速顔中を舐《な》め廻された。それを彼はいかにも嬉しそうにして、だまって犬の顔を見ているところへ、
「善馬鹿! けえったんかあ」
と叫びながら五六人の子供等が馳けて来た。そして、たちまち彼の体は暇でいたずら好きの者共に囲まれてしまったのである。
 皆はてんでに勝手な悪口や戯言《じょうだん》を彼にあびせながら、手に持っている魚を突っついたり、犬をけしかけたりした。
「う! 穢《うだ》て。あげえ犬の舐めてる魚あまた善馬鹿が食うんだぞ。ペッ! ペッ! 狂犬病さおっかかったらどうすっぺ」
「ひとー馬鹿《こけ》にしてけつかる。もうとうに狂犬病さかかってっとよ! この上へ掛るにゃ命が二ついらあ」
「わはははは。ほんによ。うめえや」
「おっととととと」
 人々は急に笑い出した。
 下等な笑声の渦巻の下を這うようにして、善馬鹿の低い甘ったるい、
「へへへへへ!」
という声が飛びはなれて不快に響き渡った。
「厭《や》んなことしてけつかる」
「そんだら行《え》げよ。おめえにいて貰わんとええとよ。フフフフフ」
「や! 鮭が落ちんぞ。馬鹿!」
「ははははは」
 集っている者共は、下等な好奇心に動かされて、互に突き合ったり打ち合ったりして喚きながら、暫くの間大きくなったり、小さくなったりしていた。
 けれども、だんだん人数も減って来ると、前よりもっといやな顔をした善馬鹿が、握った鮭を落しそうにしてよろけながら、道傍の樫の大木の蔭まで来ると、赤ん坊
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