かしそうにメリンス羽織の肩をすくめて笑った。
「――あの顔ったら――昔の通りね」
 ――房は、帰る時間は気になるし、この思いがけない廻り合いを、これぎり打ちきる気はなし、せき込んで訊ねた。
「あなた、そいで今どこにいるの?」
「私?――あなたは?」
「私はついそこの坂を登りきって左へ入った処よ――須田さんて家」
「なあんだ、あすこ? あすこなら毎日通ってるわ――私、電話局に通ってるのよ、停留場んところの氷屋に間借りして……」
 志野はどうせ暇だからと云って、須田の家まで房を送って来た。
 四五日経って、房が氷屋の二階へ行った。
 濡れた大鋸屑《おがくず》が、車庫のような混擬土《コンクリート》の店先に散ばっていた。横手の階子を、土足で登って行く――。登りきった処に、並んで二つ、それと直角に一つ、西洋扉がある。それらが五燭の、見捨てられたような電燈に照らされている。――
 志野は、大きな室の真中で、長襦袢の衿をつけ更えていた。
「まあ、よく来てくれたわね、直き済んじゃうから入って頂戴」
 志野が、こんな荒涼とした建物の中でも、快活で、平気で、花弁の大きい白い花のような顔付をしているので、房もやっと自分の平静さをとり戻した。
「今晩はね、お暇いただいて来たから私ゆっくりして行けるのよ。仕事もって来たげたわ」
 房は、志野に会った夜、帰って黙っていられない程悦びを感じた。丁度細君が仕立てに出そうとしていた縫いなおしのお召があった。彼女は、志野の内職の足しにそれを持って来たのであった。
 志野は、横坐りのまま縫物材料を指先でいじった。房は失望を感じた。が、相手を引立てるように説明を加えた。
「縫いなおしじゃ厭かも知れないけど、うんと上手く縫って頂戴、そしたら、私、これからお上のもんは、皆あなたに頼むようにするわ」
「結構よ、これで――でも、あなた親切なのね、有難う。……体どんな?」
「同じだわ」
「国へ帰んないの?」
 房は苦笑した。
「だって――あなただって威張って帰れなけりゃいやでしょう」
 志野は、強く否定した。
「私とは違うわ、あなたんとこなんかお金持じゃあないの、自分の好きでただ来てるんでしょう、だもん……」
「喧嘩して来たんだから、いや」
「頑固なひと!――あなたみたいにいつまでも学生みたいな人ありゃしないわ――そのままにしていたら、だって、悪くなるばっかりよ。死んじまってよ」
「お暇いただいて、呑気に養生するわ」
 志野は、顔をしかめるようにして尋ねた。
「養生するって――どうするのあなた、今の家やめたら……困るでしょう」
「三月や四月遊ぶ位のことは出来るのよ」
 二人は、それぎり黙って、房の土産のバナナを食べた。突然、志野が弾んで天井にぶつかりそうな調子で云った。
「いいことがあるわ! あなた、ここへ来るのいや?」
 房は、とっさ、返事に窮した。
「そりゃ、家は随分穢いけど、呑気は呑気よ、なまじっか、素人家にいるよりよくてよ。室だってちゃんと一つ一つ区切れてるから。――私は、どうせ昼間一杯留守なんだから、あなたの好き自由だし――あなただっていきなり知りもしないところで間借りしたって、きっと淋しくって仕様がないに定ってるわ」
 それは、図星であった。房は、勝気だが神経質で、貸間の女主などが、勤めにも出ず、あまり金持とも見えない弱そうな自分をどんなに観察するか、それを想うと、実際躊躇していたのだ。
「それに第一、一人で暮すよりどんなにか経済よ」
 志野は、打明けた、飾りない言葉で話した。
「私だって、まるで助かっちゃうわ――局の月給なんて、たった、あなた二十八円よ、室代を十四円とられて御覧なさい、やって行けたものじゃあなくてよ。だから、お裁縫なんかするんだけど――一日根からして働いて来て、また肩を凝らす程やって見たって、ね……若し、あなたさえいやでなかったら本当に来ない? 室代半分助かるわよ、お互に……」
 房は、その晩は不決断のまま帰宅した。二三度、縫物を持って往来するうちに、次第に第一印象の暗さが薄らいで来た。却て便利らしい点が残った。須田の子供達にもなつき、ミシンの稽古をさせて貰っていた房は、一時の休養のために、まるきり暇をとりきるのは不本意であった。四五町の場所に室を持ち、気分でもよくなったら運動がてら、中の男の子を迎え位する――ゆとりと、変化も相当ある快い生活法ではあるまいか。
 房は、楽しみをもって引移った。

        三

 初めての日曜日、風の烈しく吹き捲る晴れた日であった。
 房は、一吹き荒れる毎にどーっと塵埃を吹きつけ、ガタガタ鳴る露台の硝子の面を靄でもかかるように曇らして行く風勢を眺めていた。
「――こんな風――私始めてだわ」
「ここは特別なのよ何故だか」
 志野は、伊達巻だけしめた上に羽織を着、下から借りて来た時事漫画を腹這いになって見ながら答えた。
「折角日曜だっていうのに、これじゃあ外へ出ることも出来やしない」
 穢い硝子、穢い建物に、バッと日が明るく差し込むだけ余計塵っぽく、悩ましい。房は、隅っこの壁によりかかって、編物を始めた。腹這のまま、頬杖をついて今度はその手元を見守っていた志野が、やや暫くして訊いた。
「何編み?――それ」
「さあ、なんていうんだろ、知らないわ名は。外国雑誌から教えて下すったのよ」
「……何が出来るの」
「お嬢様のスウェター」
 眺め飽きると、志野は手を延し、脇の小棚から懐中鏡をとり出した。鏡を開いて片手に持ち、片方の指で頻りに鼻毛を抜き出した。円いくくれた顎をつき出し、一心に目を据えてぐっと引張るが、なかなか抜けて来ない。気合をこめて引張っては擽ったそうな顔をする。房が到頭ふき出した。
「何よ、それは――はっはっはっ」
 つられて、志野も笑い出した。
「――だけれど、あなたみたいに装《なり》ふりかまわないひとはなくてよ――学校にいた時分からそんな髪だったじゃないの」
「そうね」
「もう少し何とかすればいいのにさ。十八九の時分と、二十過ても同じじゃ余り可哀そうよ」
 やがて志野は、
「どれ、一寸私にいじらせて御覧なさい」
と、気軽に房の後に廻った。彼女は、器用に、長い、たっぷりした髪を梳き始めた。
「こんなにあるのに――私なら素敵な髪に結って見せるわ――髪の形で喫驚《びっくり》する程ひとって変るもんよ」
 自分の毛筋立てや鬢かき迄持ち出し、志野は自分が結っているような洋髪に結い始めた。
「さ、これ持ってて」
 彼女は、房に鏡を持たせた。一ところへ形をつけては、
「どう?」
と背後から顔を重ねて自分も鏡を覗きこんだ。
「いいじゃあないの、すっかり可愛くなっちゃうわ」
 房は、好奇心の動く、一方、極りの悪そうな表情で云った。
「私の髪、どっさりあったって強《こわ》いから駄目よ、こんなの」
「結いつけないから、そりゃいきなり理想的には行かなくてよ。――まあ黙って見ていらっしゃい」
 出来上るにつれ、房は大きい髪を持てあました。
「本当にいやあよ、私。私じゃあない人間みたいだわよ、これじゃ」
「どれ」
 志野は、素ばしこく前に廻って検査した。
「そんなことあるもんですか! トテ、シャンになったわよ」
 遊んでいると、階段を登って来る下駄の音がした。
「おや――、芦沢さん、出ていたのかしら」
 然し、下駄の音は隣に行かず、志野の扉の前で止った。
「――今日は」
 櫛を持ったまま耳を立てていた志野は声を聞くと、ひどく迷惑な顔した。
「――何の用があるんだろう」
「私なら、かまわないことよ」
「いいのよ」
 志野は、ずかずか取繕わない風で立って行った。
「浅田さん――いますか」
 志野は、体で入口をふさぐようにして扉《ドアー》をあけた。
「――今日は――いつ来たの」
「さっき」
「……今日は駄目よ」
「誰かいるの」
「お友達――お房さんて――」
 ききとれない低声で、二人は何か囁き合った。
「――だって――そんなこと駄目よ、ね、だから……」
 甘えたように高まった志野の声が、再びひそひそと沈む。やがて、
「じゃ、さようなら」
 勢よく戸を閉め、戻って来ると、志野は照れかくしのように、舌を出した。房は、少し居心地わるい気がした。
「――邪魔じゃあなかったの?」
「いいのよ、あんな奴」
「――誰なの」
「元、下で働いていた男――今もういないんだけどね――いやんなっちゃう――おや、あなた、解くの」
 不自然なところのある快活さで、志野はまた髪をいじり始めた。――
 このことを忘れた数日後の或る夜、志野と房は電燈の下で、静かに互の仕事をしていた。志野は裁縫、房は編物。ひっそりした晩春の宵ががらんとした室をもみたす心持がされた。房は、平和な、充実した気分であった。彼女は時々頭をあげて志野を見た。志野も、和らいだ夜に心を鎮められて、針仕事に没頭していた。志野にこのようなことは珍らしい。彼女は、大抵亢奮しているか、さもなくばだらけているか、どちらかだ。
 折々、電車が駛《はし》り過ぎた。畳の上で鋏が光っている。……
 房は、きくともなく、下の若者が吹くらしい口笛を小耳に挾んだ。よく近頃レコードできく、舞踏曲らしい。なかなかうまい口笛であった。暫くしてやんだ。階下で笑声がする。――手馴れた竹の編棒、滑りよい絹混りの毛糸、あたりの浄らかな静けさ。三つが一つに調子を合わせ、また心を吸取られていると、意外に近いところでさっきの口笛が起った。一頻り吹いて静かになった。間を置き、今度は、二声ずつに区切って鋭くヒューヒューと鳴った。
 房は思わず志野の顔を見た。志野はまるでうんざりした表情だ。彼女は、何か云おうとする房を、いそいで眼で制した。手招きをして、房の頭を運ばせ、耳に囁いた。
「一寸戸をあけて見て来てくれない?」
 せき立てるように、また階子口で口笛が鳴った。志野は立ちかねている房を、拝む真似をした。指の先を擦り合わせて。
 房は、さっと内から戸をあけ、五燭の蠅の糞のこびりついた電燈の光で、廊下を見た。男が戸の方を向いて立っていた。が彼女を見ると、急に外方《そっぽ》を向き、別な間借人の出て来るのを今一寸待ち合わせているという風に、呑気らしく、窓框《まどかまち》に靠《もた》れて脚をぶらぶらさせた。

        四

 時候がよくなったせいか、志野はよく勤めの帰途どこかへ廻った。夕飯をしまってから、更めて出なおすこともある。
「お房さん、あなたも行って見ない? 矢張り元局にいた人で、そりゃ面白い人よ」
「――私はよすわ」
「じゃそこいら辺までつき合わない?」
 遅くかえったりした時、志野は何か気がかりな風で室を見廻しながら、房に訊いた。
「誰も来やしなかって、留守に」
 二三度、
「芦沢さんとこの人来なかったこと」
 などとも訊いた。志野が留守の間、房は湯に行くか、須田へ行って数時間女中部屋と子供室とで費して来るか、単調に暮した。その単調な無為が生理的に必要と見え、房はちっとも退屈でなかった。
 志野の生活の全幅も、追々理解されて来た。彼女が始めからぼんやり推察していた通り、まだ面前に現われない数人の男が、小綺麗で、たよたよしく、その癖どこにか平気みたいなところのある志野を取繞んでいるらしかった。志野は何を警戒してか、その方面のことは一言も房に話さなかった。
 照りつづけた揚句、夜中から穏かな雨が降り出した。ふと目をさまし、トタン屋根に粒々落ちる雨の音を聴いた時、房は嬉しい心地がした。ぐっすり眠って起きた時は、志野の出た後であった。雨はまだやまない。しとしと軟かく繁く屋根を打つ雨脚、点滴の長閑《のど》かな音、電車の響もぼやけ遠のいて聞える。房は久しぶりの雨で魂まで潤されたように感じ、ゆるゆる髪を梳きながら開かない露台の裡から外景を眺めた。街路樹の梧桐の濡れた若葉が、硝子を流れる雨水のせいで溶けるように、世にも鮮かな緑で見えた。下に、赤いポストがあるのも愛らしい。房は、好物な苺のジャムをつけてパンを食べ、牛乳を飲んだ。飽きずに雨の音を聴いた。降る雨は一様でも、雫る場所によって音が
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