違う。――
 昼から房は下へ降りた。上って来ると、隣の芦沢の室の戸が珍らしく開いていた。廊下――房がその前を通って自分の室に行かなければならない――方へ、瑞々した丸髷を向け、派手な装の女が草履の鼻緒をなおしている。房が傍へ来ると、女は自然に頭を擡げた。
「いいおしめりですことね」
 すらりとした調子であった。房は、顔を赧らめた。
「ほんとにね」
 女は、はたはた前掛をはたいて立ち上った。
「ちっと寄って話していらっしゃいな、いいでしょう、今誰もいないんですよ」
 気持よい女なので寧ろ意外であった。室は八畳で、安ものながら箪笥や長火鉢や、すっかり世帯道具が揃っていた。座布団も鏡かけもぱっとしたメリンスずくめであった。
「――あなたがいらしたってことは、下のお神さんにきいてたんですよ……いかが? お気に入りましたか」
 房は、黙って笑った。
「――あなたんとこ、よくこんな綺麗にしていらっしゃること」
 女は、嬉しそうに、
「割にいいでしょ」
と云った。
「まるでがたがたなんですものねこの家ったら。――せめて自分達のいる処でも心持よくしとかなけりゃ――そりゃそうと、私ったらまだ自分の名も云わないで」
 芦沢の細君は、姉らしく笑った。
「あなたの名は、下できいたんだけど……」
「房、どうぞよろしく」
「ああそうそう、お房さん、いい名ね、私は滑稽でしょ、森律子と同じなんですよ、名ばかり同じだって、こんなおたふくじゃ何にもならないわね」
 律は、勤め先のカフェーが今建て増しで休業中なこと、そこにもう三年勤め、一番の古株になったことなど話した。
「いくら古参になったって大したこともないんですよ、でもやめられない訳があるんでね……もう一年――うちがM大学を出るまで――あなたは? お志野さんと御一緒だったんですか?」
「ええ、国の補習科の時分――」
「へえ、じゃあ同じ局じゃあないんですか」
 房は、簡単に自分の境遇を説明した。
「まあ、私はずっと御一緒かと思ってた――そうですか、じゃあ、余りあのひとのこともお知んなさらないわけですわね――今じゃ元気になったけど、来たばかりの時ったら、そりゃお話になりませんでしたよ」
 房は、二時間ばかりいて、自分の部屋に戻った。――直ぐには何も手につかない気持であった。このようなことがあるから、志野は、隣の人、カフェーの女給などと自分に警戒を加えて置いたのだろうか。
 六時頃、志野が帰って来た。
「ああひどいひどい。御覧なさい、この通り――自動車の泥よけなんて何にもなりゃしないわ」
 はねの上った紺絣の合羽を、露台へ乾しに出ようとし、彼女はふと机の上にのっている半紙包に目をつけた。
「あら――」
 志野は、睨むような流眄《ながしめ》で房を視た。
「あなた、お隣へ行ったの?」
「ええ」
「面白かった?――あの人んとこ、いつでもこのお菓子よ」
 蹲んで、志野は、蚕絹糸でくるんだような四角い、小さいキャンデーを口に入れた。気にかけまいと努め、終にやりきれなくなった風で、彼女は、曖昧な、どうでも変化させられる薄笑いを泛べながら訊いた。
「――珍聞があった?――……私の噂してたでしょう」
 房は、穏に、真面目に云った。
「いろんなこと聞いたわ」
「…………」
 志野は、黙って顔を見ていたが急に房の手をつかんで自分の方へ引ぱった。
「ね、あなた私信じてくれるでしょ? ね?」
「信じるって――噂なの? あの人の云ったことみんな――あなたが変にかくしだてしたから、私却って何だか……」
「だって――云えないんですものそんなこと、恰好が悪くて。……あなた、憤っちゃった? もう私みたいな女と暮すのなんかいや?」
 房は、いじらしいような、自分迄切ないような気持がした。
「そんなことありゃしなくってよ――謂わば、一つの不仕合みたいなものだったんじゃあないの」
「――あなたほんとにそう思っててくれる?」
 志野は、感動で涙ぐんだ顔付になった。
「――あなたさえそう思ってくれれば、私全く有難いわ。――心配してたんですもの」
 そして、見る者の心も動かす嬉しそうな笑顔で云った。
「ああ私さばさばしちゃった!」
 対手の心持の判った安心と、何も隠すに及ばなくなった安心とで、志野は一時に当時の辛さを打ちあけ始めた。
「――実際あの気持――とても口で云えないわ。その男――今泉っての――お邸を出てから、私が悠くり寝ていられる二階を紅梅町へ借りたって云うんでしょ、私だって、まさか嘘だと思いやしないわ、わざわざ出かけて行って探したの探さないのって……いくら歩いて見たって、飯村なんて家ないから、やっと交番を見つけて訊くと、東か西かっての。町が東と西とになっていたのよ、その紅梅町っての! いいえ、ただ紅梅町だけですって云うと、巡査ったら、ニヤニヤ笑うのよ、あなた。そして、何番地かって。千六十九番地ですって云うと、そんな番地どこにもありゃしないってんですもの、私――」
 志野は、
「ああ、思い出しても厭んなっちゃう」
と吐息をついた。
「でもね、今中さんてお産婆さん、親切だったから私助かったのよ、ひょいと看板を見て入ったんだけど。……そのお婆さんがここを知っててね、それで私来るようになった訳なのよ、実は――」
 房は、その辺まで律に聞かされていた。その時から、彼女の気になっていることが一つある。房は、低い声で訊いた。
「――そいで――どうしたの――その生れた……」
「ああ」
 志野は、早口でさも事なげに答えた。
「一週間ばかりで死んじゃったわ」
 それをきくと、房は何故だかぞーッとした。

        五

「ねえお志野さん」
 或る夜、房はしみじみと云った。
「――あなた……いつまで今の局にいる積り?」
 志野は、罪のない訝しげな表情で房を見た。
「何故?――いきなり……」
「――いい加減にして国へお帰んなさいよ」
「おかしな人!」
 志野は、小粒に揃った歯を出して快活に高笑いした。
「どうしたのよ一体――あなた帰りたくなったの?」
「そうじゃあないけど――いつまでいたって同じこっちゃあないの」
「そりゃあそう見たいだけど――変ね、どうしたのよ」
「帰らないんなら引越しましょうよ」
 やっと、房の気持がほぼ推察され、志野は落着いた様子になった。
「私、妙な性分だから、あなたが何だか噂にとりまかれて、どっちつかずに貧弱な暮しをしてるのが切なくなって来たわ。――そろそろ本気に考えて、働くなら働く、お嫁にでも行くんならそうと、きっぱりした方が本当に身のためだと思ってよ」
「そうなのよ、そりゃあ私だって考えてるわ」
 志野は素直に云った。
「全く私なんか半端で仕様がないのよ、局の給料なんぞ、五年勤めたって、安心して暮すだけはとれないものね――局ばかりじゃあないけどそりゃ。どこだってひどいのよ。この頃女一人が誰にもたよらず遣って行けるだけのものをちゃんとくれるとこなんてありゃしないけど――でも、どんなことしたって国へなんぞ帰るもんですか」
「何故よ」
「国へ帰って御覧なさい、私みたいな貧乏人の娘は、どんなことしたって浜人足の女房が関の山よ。その上、ひょっと、ね、いろんなことでも知れて御覧なさい、もう鼻も引かけられやしないわ。――そんなこと私いや! 東京にいりゃ、ものの分る人が多いし、世間が広いもの――私さえ心掛けをちゃんとしていりゃ、落着くにしろ、浜人足よりゃ増しな人が見つかるまいもんでもなくてよ。――私みたいに生みっぱなしにされた者は、仕合だって苦労して自分で見つけなけりゃならないんだもの――」
「それにはさ、猶まわりをさっぱりしとかなけりゃ――誰だって――」
 志野は、うっとり考えていたが、独言のように呟きながら微笑んだ。
「……でも、もう少しだわ……」
「なにが?」
「――……」
 志野は首をかしげ、憧れと楽しさとが心一杯という笑顔をした。
「――今にわかるわよ」
 土曜日に、房は須田へ遊びに行った。上の娘が、セルロイドのキューピーに着せるものを縫えなどと甘え、房は九時近く帰って来た。店のタタキを入ると、いつになく琴の音がする。扉の外に、黒い鼻緒の男草履が一足脱いであった。房は、外から、
「ただ今」
と声をかけた。
「おかえんなさい」
 艶々した志野の声が高く返事した。
「丁度よかったわ」
 露台へ向って明いている窓枠に、和服の色白な男が腰かけていた。志野は琴をひかえて、室の真中に坐っている。
「あの――お房さん、さっき話した――この人、大垣さんての。もと局にやっぱり勤めてたんだけど、今会社なの」
「やあどうぞよろしく」
 大垣は、重ねていた脚だけ下し、窓枠にかけたまま挨拶した。
「お噂はかねがねきいてました」
 志野は、房に訊いた。
「どうだった須田さん面白かって? 丁度あなたとすれ違いよ、大垣さん来たの。ね、そうね」
「ああ。――丁度お出かけだってんでがっかりしていたところです。――どうです近頃は――面白い活動でも御覧でしたか」
 志野が引受けて答えた。
「ちっとも行きゃしないわ」
「――じゃあいつか行きましょうか、みんなで。――今週何があるかしら――バレンチノ――荒鷲なんての素敵だったな」
 志野が、自分の宝を自慢するように吹聴した。
「純吉さんたら、まるで活動通なのよ、外国俳優の名なんぞすっかり暗記してる位だわ。ね、そうでしょ」
 大垣は少し得意そうに、
「いやあ」
と笑った。
「そんなじゃあないさ」
 やがて、志野が訊いた。
「ね、お房さん、大垣さん、いくつに見える?」
「さあ――大人ぶっていらっしゃるわね、でもそんなにお志野さんと違わないんでしょう」
「ひゃあ、どうも辛辣だな。いくつに見えます」
「そうね、二十七? 八?――とにかく五以上でしょう」
「うまく当てたわね、七よ。私と四つ違い」
 房は何となしひとりでに微笑が唇に浮ぶのを感じた。
 大垣は十一時頃までいた。志野は、階子口まで送って戻ると、いきなり房に感想を求めた。
「ね一寸、どう? あの人」
「どうって――こないだうちよくあなた行ったの、あの人んところ?」
 志野は、眼に輝きを遺したまま合点した。
「どう思う?」
「何として、どうかっていうの?」
「意地悪!」
 二人笑った。
「ね、真面目にさ」
 房は、志野がこの間、恍惚《うっとり》として考えながら呟いた言葉を思い出した。
「だって――もう、あれなんじゃあない? お互にすっかり定ってるんでしょ?」
 志野は案外そうな顔をした。
「分る?――あなたに」
「いやあよ、あんな口利て誰だって……」
「本当?――私もう云っちゃおう! ね、私もう、直きあの人と結婚するのよ、多分」
「――……大丈夫なの、どんな人だか知らないけど」
「局だって皆いい、面白い人だって云ってたわ――そりゃ」
 志野はほんの少し悄気《しょげ》た。
「今はまだ月給だって少しだけど、どうせ私なんぞ、これから共稼ぎでやりあげる人でなくちゃ駄目だもん。――それにね、私ぜひあの人と結婚しなけりゃ困るのよ」
 房は、不安を感じて、思わず志野を見た。
「ほらあの――こないだうるさく来た男ね、もと下で働いていたっていう。――若し大垣さんと一緒になれないと、私あの男と夫婦にならなけりゃならないかも知れないんですもの……」
 多公《たあこう》と呼ばれた多十郎に、志野は、今大垣にきかせていた琴と、被いのメリンスの布を買って貰ったのであった。
「私、大垣さんとの方が先約だって云って頑張ってるのよ」
 次に大垣の処へよって帰って来ると、志野は浮々房に囁いた。
「一寸! 純吉さんたら、あなた、活のいい果物みたいで好きだって云ってたわよ」
「まあ、いやだ」
 志野は冗談とも本気ともとれる調子で警告した。
「あなた、あの人が好きにでもなったら、私絶交しちゃうわよ、よくて」
 大垣も度々訪ねて来た。彼等は房のいることを忘れたように噪《はしゃ》ぐことが多かった。気がつくと、大垣は、
「やあ、失敬失敬!」
などと、謝った。
「君も一つ対手をさがし給えよ、どうも、遠慮があって、僕等が困ります
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