氷蔵の二階
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)閉《た》てきった

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)皆|塵埃《ほこり》を立てた。
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        一

 表の往来には電車が通った。トラックも通った。時には多勢の兵隊が四列になってザック、ザック、鞣や金具の音をさせ、通った。それ等が皆|塵埃《ほこり》を立てた。まして、今は春だし、練兵場の方角から毎日風が吹くから、空気の中の埃といったらない。それが、硝子につく。硝子は、外側から一面薄茶色の粉を吹きつけたように曇っていた。何年前に、この大露台の硝子は拭かれたぎりなのだろう。
 床は、トタン張であった。古くて、ところどころに弛みが来、歩くとベコン、ベコン、大きい音がした。屋根でも歩くようだ。房は、古いスリッパを穿き、なるたけ音をさせないように注意しながら、どこか閉《た》てきった硝子戸をあける場所はないか探した。
 大きい西洋料理屋の何かで、椅子|卓子《テーブル》の時分はよかったろうが、穢い洋式の部屋に畳を敷いて坐っていると、大露台の閉めきりなのが、いかにも鬱陶しかった。入口は三尺の西洋戸で区切られている。東は二間窓だが、細かい亀甲模様のこれも硝子障子で、いい風通しにはならない。第一、うっかり開けたら、二尺と離れていない隣の俥屋の二階から、どんなものが彼女の寝ているところへ入って来まいものでもなかった。――からりとするためには、南の、往来に面した、大露台の硝子をすかすしかないのだが――。
 房は、永年の塵で水色ペンキが皸破《ひびわ》れている手摺越しに、方々押して見た。彼女が力を入れて、指あとの残る棧を引ぱって見ても、肝腎の硝子は動かず、足元のトタン床がベコ、ベコ、鳴るばかりだ。房は、癪に触るやら、おかしいやらであった。この部屋の主人である志野が帰って来る迄は待つより仕様がないらしい。
 房は断念して、室に戻った。東の窓下に型ばかりに置いてある一閑張の机に向って坐った。頁の隅々が捲れ上った月おくれの婦女界がたった一冊あった。房は、落付こうと努力しながら、漫然口絵の写真をはぐり始めた。が、どうも背なかの方が気になって机に向っていられない。房は、薄い更紗の坐布団の上でくるりと一廻りし、今度は背中を机に押し当てて坐りなおした。十一畳という、がらんとした室じゅうが彼女の目前に拡った。畳が粗末な琉球表なので、余計のべたらに広く見えるのだ。それにしても、何という貧弱な有様だろう。房は、もう一年もこの室で暮したという志野が、よく我慢出来ると驚いた。壁は、ぼけてよく色も見分けられないようになった花模様の壁紙で張られているのだが、破れたところは破れぱなしであった。家具らしいものは何もない。小さい角火鉢のがさがさに荒れたのが、戸棚の前にぽつねんとあった。出がけに脱いで行った志野の綿ネルの寝間着が、衣紋竹に吊下っている。琴一面あるだけで、やっと住んでいるのが女だと察しがつく位の様子であった。――房はやがて、立ち上った。彼女は戸棚をあけると、バスケットの中から縮緬《ちりめん》の財布を出し、外に出かけた。
 大露台の隅に、低い流しが据えつけてあった。上のところに二段棚が吊られ、自炊の台所となっている。房がそこで夕飯の仕度にとりかかっていると、ガタガタ下駄のまま階子《はしご》を昇って、志野が帰って来た。人なつこい心持に溢れ、前かけで手を拭きながら飛び出した房と顔を見合わせると、志野は、
「あら私、何だか変だわ、嬉しいみたいな、恥しいみたいな」
と笑い出した。
「人が待っていてくれるところへ帰って来るなんて、まるで珍しいのよ」
 房は、志野が袴をぬぐ間傍に立って見ていた。
「ひどい埃ったらなくてよ、外」
「――着物きかえる?」
「そんなしゃれた訳にいくもんですか、ふだん着だって勤め着だって一枚こっきりだわ、私なんぞ。――どうだった? 退屈じゃなかった?」
「ふむ――でもこの部屋、ひどいのね昼間見ると――そこの硝子どうやったらあくの」
 志野は、半幅帯をちょっきり結びにしながら、上眼で部屋を見廻した。
「どこ?」
「表のさ、あすこが明くとからりとすると思ったんだけれど」
「ああ、あすこ。あすこは駄目だ」
 志野は、二十三にしては小柄で若々しく白い喉をふり仰のけるようにしてころころと笑った。
「あすこは明かないわよ、釘づけだもん」
「夏どうするの、蒸れちゃうわ」
「いいわよ、今からそんな心配しないだって――実はね――去年の夏、あすこを夜中まで開けっぱなしでうんと騒いだことがあるのよ、そしたら巡査に呶鳴られちゃってね――下の神さんなんて――仕様がありゃしない、意地ばっかり悪くて……」
 二階は、一室ずつ貸し、下では氷問屋を営んでいるのであった。
 着物を始末すると、志野は一寸髪をかきあげ、
「どれ」
と、前かけをしめかけた。
「どうも有難う、手伝うわ」
「いいの、今日は――今日は引越し祝にあなたお客にしてあげるわ」
「ほんと? すてきすてき! せいぜい御馳走してよ。じゃあ私ここでただ喋くっているからね」
 志野は、白キャラコの前かけを丸めてむこうに放ぽり出し、机の前に坐った。房は、窓じきり越しに露台の台所に。暫く森《しん》とした。塵埃のレースを張った硝子の方から、夕暮のどよめきが聞えた。若葉のつきかけた街路樹の梢と、まだ光の薄い広告燈の煌も見える。
「ね、一寸お志野さん、こんなものどこへ捨てるの」
 志野は、急に夢でも醒されたような声で訊きかえした。
「え?」
「ごみすてはどこなの」
「そやっといて頂戴、夜んなったら下へ持ってくから……」
 彼女の顔を見ず、言葉つきだけかげで聴くと、房は、疲れが分って気の毒な心持になった。志野は、電話局の事務員であった。
 仕度が出来ると、房は一閑張の机を電燈の下へ持ち出した。
「――すっかり本式なのね」
「だって――じゃあどうしてたの? 今迄――」
「面倒くさいからここんところですましちゃうのよ」
「今夜は、もっと本式よ」
 房は、悪戯《いたずら》らしくにこにこしながら、わざと隠して置いたアネモネの花を運んで来た。
「どう? わるくないでしょ? これをここんところに飾ってさ」
 彼女は、卓子の横に赤いアネモネをさした硝子花瓶を置くと、直ぐとってかえして、両手に西洋皿を持って入って来た。
「これを、こうっと、ね?」
「まあ! ステイキ?」
 志野は、房のすることを、少しびっくりしたように眺めていたが、美味そうに粉をふいた馬鈴薯まで添えてあるビーフステイクを見ると、始めて本気な興味を示して感歎した。
「あなたったら――とてもハイカラになっちゃったのね。須田さんて、そんなハイカラな家だったの?」
「そんなことないけど……」
 房は、働いたのと、友達を望み通り楽しく不意打に成功した満足とで、元気よく挙動した。
「さあ、たべない?」
 志野は、清汁の味を賞め、肉の焙《や》き方が上手だと云って、亢奮し、食べ始めたが、半膳も進まないうち、どうしたのか不意に箸を置いてしまった。房は、愕《おどろ》いて自分もやめた。
「どうして――何かあった?」
 見ると、志野はまるで上気《のぼ》せ、今にも泣き出しそうになって自分を見つめている。房は、あわてて傍にすり寄った。
「どうしたのよ! 本当に」
「何でもないの、――何だか私――」
 無理に笑おうと努め、やっと早口に、
「変に悲しくなっちゃった!」
と云うや否や、志野はいきなり両方の眼からポロポロ涙をこぼした。涙をこぼしながら、彼女は片端からそれを拭き、極り悪そうに微笑んだ。
「御免なさい、本当に私何だか急に胸が一杯んなっちゃったのよ――こんなにして御飯がたべられるなんて――一人で暮すの全く厭よ、お浸しがたべたいと思って小松菜買うでしょう? どんなに小束買ったって一度で食べ切れないから、翌日もまたその翌日も小松菜ばっかり食べていなけりゃならないんだもの――しまいには腹が立って蹴っとばしてやりたくなるわよ」
 しんみりし、陽気になりしつつ彼女らは食事を終った。二人はそれから散歩に出た。寝しなに、志野が、
「ああ、あなたお隣の人見た?」
と訊いた。
「いいえ――いたの? 昼間も」
「うん、この頃いるの――カフェーなんぞへ出てる女だから、あなたあんまり深くつき合わない方がいいかも知れないわ」
 房は、単純に、
「そうお」
と答えた。

        二

 二十日ばかり前のことであった。
 或る晩、房は医者に行った。一ヵ月程以前から彼女は健康が冬じゅうのようでないのを感じていた。去年の秋、須田の家へ仲働きとして入って以来、何ともなかったのに、時候が暖かくなるにつれ、却《かえっ》て工合が悪かった。客があり、二階へ往復の劇しかった夜など、四肢の怠《だ》るさと、亢奮とで、気持わるく体をほてらせたまま一睡も出来ないことがあった。二年前に、彼女は肋膜を煩って、久しく床についた経験があった。それを思い出し、主婦にも勧められ、医者へ出かけたのであった。彼女の杞憂したようなことは診察の結果ないことが明かになった。ただ、休養が絶対に必要ということであった。
「今のうち悠くり二三ヵ月も保養をすれば決して心配なことはないね。けれども、このまま働きつづけちゃあ迚も堪るまい――奥さんには私からもよく話して上げよう。ま、当分家へでも行って、たっぷりお母さんに甘えて来るこったね」
 房は、ぼんやり考えこみながら、夜店の並んだ通りを歩いて来た。春先に珍しく風のない、空の美しい夜であった。彼女は、角の化粧品屋へよってピンを買った。リボンや、帯留、半衿などが綺麗な色|暖簾《のれん》のように、長く短く垂れている間をよけ、飾り棚を覗いた。紺|天鵞絨《ビロード》を敷きつめた、燭光の強い光の海に近頃流行のビーズ細工の袋や、透彫の飾ピンが、影もなく輝いている。彼女のすぐ耳の側で、若い娘の囁く声がした。
「ねえ私あれが欲しいわ、恰好が一番いいわよあれが」
 母らしい、どこか娘のに似た声が、更に小さい声で囁くのまで耳に入った。
「だって――真物だろうあれは――」
「違う――ほら、あっちの――」
 娘は、ふっくら膨らました前髪を硝子に押しつけ、熱心に小指で、自分の欲しい飾ピンの方をさし示した。
「あの右から一、二、三つ目の、分って? あれよ、ね?」
 房は、母娘の睦じい様子と、娘の余念ない顔つきに牽きこまれ、覚えず小指の示す方角を見た。そこには、外見だけでは真物としか思えないセルロイド鼈甲《べっこう》の気取った飾ピンが、カルメンの活動にあったような形で派手に横わっていた。房も、年をいえばあどけない素振りで母にねだっている娘と大して違わなかった。行って来た処、云われたこと、自分にはこの娘のように安心して甘える母のないことなどがたたまって、房は、ざわめく夜の散歩の中で、ひどく自分を孤独に感じた。胸がきゅうと、引緊るようになった。彼女は、泣きたくなるのを堪える時の癖で、くんと顎を突出すような、負けずぎらいな顔付で大股に店を出ようとした。その途端、ひょいと一人、女が横から出て、彼女の行手を遮った。房は、感情がこみあげていたので、相手を見定める余裕なく、すりぬけて猶進もうとした。すると、前にふさがった女は、一層彼女に擦りつき、攻めるような、からかうような快活な凝視で、房の注意を促した。
「一寸! いやなひと、忘れたの?」
 房は瞬間仏頂面で視た。
「――まあ、あなた」
 彼女は、俄に気が和むと一緒に、何と挨拶してよいか判らない感動に打たれた。
「まあ――どうしてわかって?――でも、まあ、本当に、こんな処で会おうとは思わなかった!」
 志野の方は、房に比べればずっと落付き、
「さっきね、ふいとここを通りがかると、何だかあなたみたいな人がいるだろ、私、まさかと思ってね、でも念のためだと思って傍へよって見ると、矢張りあなたなんだもの――」
 補習科時代からすると、別人のように志野は女らしくなっていた。房々軟かそうな黒褐色の前髪を傾け、彼女はさもお
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