出しそうになって自分を見つめている。房は、あわてて傍にすり寄った。
「どうしたのよ! 本当に」
「何でもないの、――何だか私――」
 無理に笑おうと努め、やっと早口に、
「変に悲しくなっちゃった!」
と云うや否や、志野はいきなり両方の眼からポロポロ涙をこぼした。涙をこぼしながら、彼女は片端からそれを拭き、極り悪そうに微笑んだ。
「御免なさい、本当に私何だか急に胸が一杯んなっちゃったのよ――こんなにして御飯がたべられるなんて――一人で暮すの全く厭よ、お浸しがたべたいと思って小松菜買うでしょう? どんなに小束買ったって一度で食べ切れないから、翌日もまたその翌日も小松菜ばっかり食べていなけりゃならないんだもの――しまいには腹が立って蹴っとばしてやりたくなるわよ」
 しんみりし、陽気になりしつつ彼女らは食事を終った。二人はそれから散歩に出た。寝しなに、志野が、
「ああ、あなたお隣の人見た?」
と訊いた。
「いいえ――いたの? 昼間も」
「うん、この頃いるの――カフェーなんぞへ出てる女だから、あなたあんまり深くつき合わない方がいいかも知れないわ」
 房は、単純に、
「そうお」
と答えた。

        二

 二十日ばかり前のことであった。
 或る晩、房は医者に行った。一ヵ月程以前から彼女は健康が冬じゅうのようでないのを感じていた。去年の秋、須田の家へ仲働きとして入って以来、何ともなかったのに、時候が暖かくなるにつれ、却《かえっ》て工合が悪かった。客があり、二階へ往復の劇しかった夜など、四肢の怠《だ》るさと、亢奮とで、気持わるく体をほてらせたまま一睡も出来ないことがあった。二年前に、彼女は肋膜を煩って、久しく床についた経験があった。それを思い出し、主婦にも勧められ、医者へ出かけたのであった。彼女の杞憂したようなことは診察の結果ないことが明かになった。ただ、休養が絶対に必要ということであった。
「今のうち悠くり二三ヵ月も保養をすれば決して心配なことはないね。けれども、このまま働きつづけちゃあ迚も堪るまい――奥さんには私からもよく話して上げよう。ま、当分家へでも行って、たっぷりお母さんに甘えて来るこったね」
 房は、ぼんやり考えこみながら、夜店の並んだ通りを歩いて来た。春先に珍しく風のない、空の美しい夜であった。彼女は、角の化粧品屋へよってピンを買った。リボンや、帯留、半衿な
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