下駄の音がした。
「おや――、芦沢さん、出ていたのかしら」
 然し、下駄の音は隣に行かず、志野の扉の前で止った。
「――今日は」
 櫛を持ったまま耳を立てていた志野は声を聞くと、ひどく迷惑な顔した。
「――何の用があるんだろう」
「私なら、かまわないことよ」
「いいのよ」
 志野は、ずかずか取繕わない風で立って行った。
「浅田さん――いますか」
 志野は、体で入口をふさぐようにして扉《ドアー》をあけた。
「――今日は――いつ来たの」
「さっき」
「……今日は駄目よ」
「誰かいるの」
「お友達――お房さんて――」
 ききとれない低声で、二人は何か囁き合った。
「――だって――そんなこと駄目よ、ね、だから……」
 甘えたように高まった志野の声が、再びひそひそと沈む。やがて、
「じゃ、さようなら」
 勢よく戸を閉め、戻って来ると、志野は照れかくしのように、舌を出した。房は、少し居心地わるい気がした。
「――邪魔じゃあなかったの?」
「いいのよ、あんな奴」
「――誰なの」
「元、下で働いていた男――今もういないんだけどね――いやんなっちゃう――おや、あなた、解くの」
 不自然なところのある快活さで、志野はまた髪をいじり始めた。――
 このことを忘れた数日後の或る夜、志野と房は電燈の下で、静かに互の仕事をしていた。志野は裁縫、房は編物。ひっそりした晩春の宵ががらんとした室をもみたす心持がされた。房は、平和な、充実した気分であった。彼女は時々頭をあげて志野を見た。志野も、和らいだ夜に心を鎮められて、針仕事に没頭していた。志野にこのようなことは珍らしい。彼女は、大抵亢奮しているか、さもなくばだらけているか、どちらかだ。
 折々、電車が駛《はし》り過ぎた。畳の上で鋏が光っている。……
 房は、きくともなく、下の若者が吹くらしい口笛を小耳に挾んだ。よく近頃レコードできく、舞踏曲らしい。なかなかうまい口笛であった。暫くしてやんだ。階下で笑声がする。――手馴れた竹の編棒、滑りよい絹混りの毛糸、あたりの浄らかな静けさ。三つが一つに調子を合わせ、また心を吸取られていると、意外に近いところでさっきの口笛が起った。一頻り吹いて静かになった。間を置き、今度は、二声ずつに区切って鋭くヒューヒューと鳴った。
 房は思わず志野の顔を見た。志野はまるでうんざりした表情だ。彼女は、何か云おうとする房を、いそ
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