百花園
宮本百合子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)三十一文字《みそひともじ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)※[#歌記号、1−3−28]
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紫苑が咲き乱れている。
小逕の方へ日傘をさしかけ人目を遮りながら、若い女が雁来紅を根気よく写生していた。十月の日光が、乾いた木の葉と秋草の香を仄かにまきちらす。土は黒くつめたい。百花園の床几。
大東屋の彼方の端で、一日がかりで来ているらしい前掛に羽織姿の男が七八人噪いでいる。
「おや、しゃれたものを描くんだね、三十一文字《みそひともじ》かい」
楽焼の絵筆を手に持ったままわざわざ立って来、床几にあがって皿にかがみこんでいる仲間をのぞき込んだ。
「何だって――初秋や、名も文月の? なあんこった! だから俺は源公なんか連れて来るなあ厭だって云ったんだよ、始めっから」
別な声が、わざと分別くさそうに云う。
「憤んなさんなよ。まだお前にゃあ、この味は分らないとさ」
「ハッハッ、ひとの皿ばかり覗いてないで、自分の前を片づけろよ、いいかげんに」
「なあんだ、一枚も描いてないのか、こんなに慾張りゃがって。いい気なもんだね」
一寸森とした。誰かが低い声で、問題になった
[#ここから2字下げ]
※[#歌記号、1−3−28]初秋や名も文月の恋の謎
[#ここで字下げ終わり]
と口誦んだ。
さっきから、あっちの小高い亭《ちん》にも、鳥打帽をかぶった若者が頻りに楽焼の下絵を描いている。たった一人で、前に木版ずりの粉本を置き、余念ない姿だ。亭のまわりの尾花がくれにそれが見える。
写生の日傘と、東屋との間の道を、百花園と染抜いた袢纏の男が通る。続いて子供づれの夫婦が来かかった。
「お父さん、あんなトンネル、おうちにもあるといいね」
「うん」
「拵えてね」
「お家は狭いから駄目ですよ」
「ふーん」
父親、カメラを出した。
「さ、そこへ姉ちゃんとお並び」
六つばかりのその息子と十位の姉、雁来紅を背景にして、ポーズする。
「僕もよ、僕もチャチン」
姉娘が、母の手許からすりぬけて来た末子を、
「坊やちゃん、ここよ」
と自分の前に立たす。パチン。
男の子はすぐ歩き出して、写生している傘の中を覗いた。紙の上と実物の雁来紅の植込みとを、幾度も幾度も見較べた揚句、些か腑に落ちぬ
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