宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)雁皮《がんぴ》

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(例)おやつ[#「おやつ」に傍点]には焼きいもをたべながら、
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 この六月十三日に、母は五十九歳でその一生を終った。正月の末から私は不自由な境遇におかれていて、母の臨終には僅かに最後の十五分間で間に合う様であった。母は、私を待って、その時まで終るべき命を辛くも堪えていたように見えた。
 母は数年来重い糖尿病を患っていたが、それを克己的に養生して治すということは性質として出来なかったし、三年前膵臓の膿腫というのをやった時は、誰しも恢復する力が母の体の中にのこっていようとは考えなかった。
 それが生きたのであったから、今度風のたよりに母が肺エソになったと聞いたとき、私は今度はむずかしいと思った。そのことを口に出しても云い、心のこりなく看病するように、とも云い、自分としては或る覚悟をもきめていたのであった。
 母の臨終の床でも私はあまり泣かなかったし、それからいろいろの儀式のうちに礼装をした父が白いハンカチーフをとり出して洟をかむときも、並んで坐っている私はその父の姿を渾心の力で支えるような気持で矢張りあまり泣けなかった。三十七年もの間生活をともにして来た妻を失った空虚の感じを、父が突然の衝撃として受けないよう、母が今生涯を終ったのは万全をつくした上でのさけがたいことであって、このほかに在りようのなかった成行きであると思うようにと、謂わば私のとり乱さない態度そのもので、そのことを父に語ろうとする切ないような気の張りを持ちつづけていたのであった。
 母がいなくなってから今日で一ヵ月と六日たった。母がいなくなった家の内にはきょうまでに、一つ二つの変更が行われた。それらの変更は、どれも母がやっていたよりは合理的な生活の方法への動きであり、新しい条件にふさわしい生活をつくり出して行こうとする父の気魄がこもっている仕事なのである。けれども、日が経つにつれ、私はこのごろ二階の床の間に飾ってある母の写真を平気でみることが出来ない心持になって来ている。何かの用で、その前を通りかかると、立ちどまって凝っと正面からその母の写真を眺めるか、さもなければ、何となしそっちは見ないようにして歩き、しかも目の端ではまざまざとその面影を意識しているという風になって来た。

 母という一人の女性の生涯は、娘である私のほかの人たちの心にどんな印象を与えていたのだろうか。私はそれをひどく知りたいと思う。
 この気持は母の通夜をする時からあった。何か耳新しい一つ話か思い出話が出るかと思って、心臓に氷嚢をあてながらも寝ないで柱にもたれ、明け方までいろいろな人に混っていたのであったが、誰もそんな話を切り出すひとは誰もなかった。母が二十代の時分、生れたての私をつれて札幌へ父とともに行って暮したことがある。その当時東京からついて行ってずっとそっちにいた間暮した女がその夜も来ていたが、そういう昔馴染でさえ、あああの時はどうだった、この時はこうであったというような話はしないで、大きい青桐の葉に深夜の電燈が煌々と輝やいている二階の手摺のそばで、団扇を胸元で低くつかいながら、思い出したようにまわりの者に小声で茶菓などすすめている。
 その有様には、母の特徴があらわれていると感じられた。誰にしてもひとくちで母の印象を語ることは出来にくいのだろう。褒めるというのもわざとらしいし、ましてそういう場合、ああされたことは今も忘られないとは云えないし、普通のひとの心持では一寸云うべき言葉がないのだろうとも推察された。
 母は、晩年特に著しくなった矛盾をいっぱい持って、それを極めて率直に、世間知らずにのばしきり、自身の嘘や誇張をも知らず、自分の生活ぶりがはたの者にどんなに影響しているかということにも気づかず、一家の真中に坐をしめて生きた女性なのであった。
 母の生れた西村という家は佐倉の堀田家の藩士で、決して豊かな家柄ではなかったらしい。しかし葭江と呼ばれた総領娘である母の娘盛りの頃は、その父が官吏として相当な地位にいたために、おやつ[#「おやつ」に傍点]には焼きいもをたべながら、華族女学校へは向島から俥で通わせられるという風な生活であった。嫁いで来た中條も貧乏な米沢の士族で、ここは大姑、舅姑、小姑二人とかかり人との揃った大家内であったし、舅はもうその頃中風で、世間なれない二十二の花嫁としては大姑、姑たちの、こまかくつけまわす視線だけでもなかなか辛い思いをしたらしい。その時分の思い出は私が十七八になってから折にふれてはよく母も話した。結婚したのは父が帝大の工科を出る年で、余り年より達がうるさいと、だから貴女がたのいる間は僕は嫁なんぞ貰わないと云ったんじゃないかと、大きい声で憤ったということをも聞いた。

 私が生れた頃の家は小石川の原町にあって、今に骨ばなれがしやがるゾ! と魚やの若い衆に罵倒される程倹約な暮しをしていたそうだ。裏にジャガ薯畑があって、そこからとれるジャガ薯ばっかりおかずにしていたと、笑って話したことがある。
 はじめて父が外国留学をしていた時代の若い母の思い出や、それから後私が十七八になるまでの母の生活を回想すると、母が女として耐えて来た様々の困難や時代と境遇との関係から満たされなかった母の希望というようなものが、いろいろと推察される。
 父は貧乏の中を外国へ行っていたので、二十七八歳であった母は五つの私を頭に三人の子供を育てながら、父が帰朝して子供らを無事にわたしたらそれで死んでもいいという心持で、その日その日をがんばって暮していたのであった。
 夜になると大きい父のテーブルの上に、その時分の子供の目にはいかにも綺麗で明るいニッケルの台ランプを灯し、雁皮《がんぴ》を横に二つ折りにたたんで綴じたのへ、細筆で細かくロンドンにいる父への手紙を書いていた母の横顔は、なんと白くふっくりとしていただろう。三人の幼い子供たちに腰のまわりをかこまれて、立ってオルガンをひきながら、若々しい声を張りあげて「青葉しげれる桜井のウ、さアとの訣れの夕間暮」とうたっていた母。子供たちをよろこばせるためというよりも、もっと自分が楽しんで、その時分の母は、よく絵を描いていた。母は『新小説』だの『女学世界』だのという雑誌を毎月とっていて、そういう雑誌の口絵には洗崖などという画家が、マーガレットに結った女学生が野原を散歩しているところなどを描いたのがついていた。気に入った絵があると、母は、雁皮紙をその上にのせ、丁寧にしきうつしをして、後から色だけを自分のこのみに従って塗っていた。
 上野の美術学校へ入って洋画を習いたいとロンドンにいる父に相談してやったら、父はそれに不賛成であったというのもこの時代の出来事であろう。それでも母は洋画を習う希望をすてず、上野へ行って規則を調べたりもしたらしいが、当時美術学校は女の生徒を入れないことになっていた。そう云って断られた。けれどもイーストレイキの娘が女で通っているのに、日本の女を入れないのはどういうわけか、西洋人と日本人とでは同じ女でも特別扱いなのはどういうわけかと、後年に至るまでそのことでは不満を洩らしていた。
 美術学校の方はそういう工合で駄目だし、ロンドンにいた父が留守中に妻が洋画の稽古をはじめることを賛成しないのは、母が若いのに、教師が男だからというのが真実の理由だと理解していた母は、女に対しては、そんな片手おちを強いるものの考えかたに対して、一種の憤懣を抱いていたことも察しられる。
 当時、又、どうしたわけだったのか祖母が父の留守中に母を離別させてしまおうとして、伯父をつついて書かしてやった手紙がロンドンから父の手紙の中に封入されて母の手許に渡ったようなこともあり、普通の留守を守るというより遙に複雑な関係が母をかこんでいたのであった。
 父は明治四十一年、日露戦争が日本の勝利によって終って間もなく帰って来た。その時分の洋行がえりは今では想像も出来ないほどハイカラなものであった。父もそのようにハイカラになって帰って来たのだが、母との間には、過去五年間のまるでかけはなれた生活の条件から来た感情のぴったりしないところがあった。母は父のハイカラぶりをどちらかと云えば単純に只その間に経た自身の辛苦と思い合わせて辛辣に見たらしく、それから数年の間、父と母との明暮にはひどく衝突するような場合もふえて、本能的に父の側に立つ九つの娘に向って母は「お前はお父様の子だ。お父様と一緒にどこへでもお行き!」と涙をこぼしながら叫んだりした。
 そのように激しく衝突しながらも、父が役所勤めをやめて建築事務所をはじめたときには全力的に果敢にそれをたすけ、その多忙な年々に、幾人もの弟と妹とが生まれて行ったのであった。

 私がいつとはなし文学に興味を持っていることに気がついてから、自然に母も自分の生活の一部に文学趣味を復活させて、トルストイの作品などは愛好して読んだ。私のはじめての小説が発表されてから、母は、自分の満たされなかったいい意味での好学慾と、わるい傾向としての学問的世間的虚栄心とをごったまぜして、情熱的に私に集注しはじめた。母は雑誌社や新聞社との必要な交渉は自分が一番心得ているように思いこんで、娘である私に向っては、何が娘の芸術を育てる根源的なものであるかはわからず、恋愛もしなければ、失敗もしなければ、ただいい作品だけを書いて行く特殊な存在のような扱いをしはじめた。これは本当に私を恐怖させた。
 五十九歳で母がその生涯を終る最後のときまで、母と私との間に真からとけあうことの出来ないものとしてのこされた決定的な点が、この時代に芽立った。
 ヨーロッパ大戦が終る年父につれられて私はアメリカへ行き、ニューヨークに一年いる間に、無一文の言語学をやるひとと結婚した。
 この結婚は当時新聞が、百合子はアメリカにごろついていた洗濯屋と夫婦になったなどと書いたりしたことがあり、両親は勿論賛成せず、特に母はそのために眠られない幾夜かを過したのであった。母は、いくらか世間に名を知られるようになった娘をこの際洋行させたら、もっと偉いものになるだろうと考え、母らしい英断で、家に金もないところを、現在住んでいた家を抵当として金をつくり、それで私をやったのであった。
 娘はそんなこととは知らなかった。母の考えているところは感じられて、それに反撥しながら、今度こそ独りになって、自分のまわりに執念ぶかく結わかれている柵を二度と結い直しのきかない程にふっ飛ばそう。こんどこそ生きたいように生きるのだと、勇躍して、じかに生活へとび込む希望と好奇心に満ち溢れて、太平洋を渡ったのであった。
 妙な結婚なんぞして、母の絶大な幻滅の前へ二十一歳の私は確信ありげな顔つきで帰って来たのであった。結婚した人と母の気質も到って不調和で、母が遂に家から出て行けと業を煮やしたのも、今日になってみれば無理ないことであったと思う。
 子供時代からの本箱と敷いていた木綿の夜具だけをもって、私は両親の家を出た。
 母は、父に向っても、娘に向っても、自分のうけた打撃はきびしく復さずには居れないたちで、又それをやった激しい気質の女性であるが、それは日常的な家庭生活の内でのことで、世間に向ってものを云う場合になると、その母でもやっぱり従来のありきたりの型に興味ある自分の性格をちぢこめ、あてはめて、娘や息子の愛のためには身をすてる女のように自身を語るのであった。そしてそう話しているときの自分の心には、偽りはなかったのであったろう。借金をしてまでの大望が娘によって裏切られた落胆についても、母はそれを率直にありのままは話さず、娘の大成のためには金銭をおしまず、堅忍をもって耐える母という風に道徳化して語った。それが又私の心に体の震えるような憎悪を呼び起すのであった。そういう矛盾は母の真情に対する同感をすっかり抱かせなくした。
 母と私との生活が別々な軌道を持つようになってからは、母の文学的興味も一時
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