下火となった。そのかわりに日本画の稽古がはじめられた。
 その時分になれば、家の経済状態も少しはましになって来ていたのであったろう。私がたまに遊びに行くと、母は、葡萄や牡丹の墨絵を見せ、毛氈を敷いて稽古している二階の風通しのいい座敷へ呼ぶことなどもあった。ところが暫くで絵の稽古も中止になった。もう糖尿病になっていたので、下を向いていることは歯齦を充血させて体力が持たなかった。そのほか、後できくと、その絵の師匠は、絵筆をとっている合間に、家をたててくれなどと云い出したので、母は警戒して絵の稽古もやめてしまったのであった。
 そのことは、日本画家の一種の紊風を示す話でもあり、又母が実際家であって、利害を守るにも鋭く、そういう点でも断乎としていたことをも示す面白い話だが、当時母はそんな事情はちっとも云わなかった。ただ、あの何とかさんの筆は死んでるからおやめだ。私の絵の方がよっぽど活きているよ。など話した。文学の仕事から推し母の絵の修業にも関心をもっていた私は、母の云う筆勢なるものにいくらか不安も持ったりした。文学作品で云えばメロドラマティックな誇張に陥るのではないかと、母の筆勢論には消極なうけこたえしか出来なかった。
 この前後(一九二四・五年)から、子供らは、私が見ていたように、そして手伝ったように、自分で洗濯をし、縫物をし、台所で夕飯のおかずをこしらえるために立ち働いている母を見ることが全く無いようになった。
 母は父との間に九人の子を持った。そのうち六人を死なせ、肉体と心との疲労はひどかったが、特に一九二八年八月、東京高等学校三年生であった弟が計画的な方法で自殺してから、母の生活はよそめには一種異常なものとなったのであった。
 その前年の秋から、私は外国へ出かけ、弟の死はレーニングラードで知った。弟が自殺したこまかい理由は今もって具体的に分ってはいないけれど、その前後の時代の高等学校の学生であった二十一歳の青年の精神的苦悩から、弟はその前、三月にガスで一度死のうとしていたところを、父に発見されたことがあった。その三月の時、日頃彼を熱愛していた母は、最愛の息子が自殺して苦悶から逃げようとした態度を激励的に叱責するよりも先に、その純情と苦悶とに自分がうたれ、感傷し、感情の上で弟にまきこまれた。五ヵ月後、彼が遂に死んだ時も、母はこの濁世に生きるには余り清純であった息子の霊界への飛翔という風に、現実の敗北を粉飾してその心にうけとったのであった。
 その時十三ばかりの少女であった妹は、自分も自殺したら母が少しは可愛がってくれるようになるのだろうかと思い、散々泣いたということを、後になってそっとうちあけたことがあった。
 明治開化期の影響をうけて、宗教だの霊降術だのに対しては批評をもって暮して来た母は、弟の死後、一種剽悍な惑溺で息子の霊の力が母である自分を守っているということを信じるようになった。この霊との交渉においては、夫も他の息子や娘もいっさい除外された。
 独占的な霊との結合の感情は、日常生活において母を寛大にするよりも、却って主我的にしたのであった。

 一九二九年の春から秋にかけ、父はモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]にいた私をのぞいた一家四人をひきつれて欧州旅行を企てた。父は全く母の最後の希望を満すためにこの身分不相応の旅行を決行したのであった。息子夫婦と末の娘までをつれて行ったのは、すっかり健康の衰えている母がいつどこで最後の病床にたおれるかもしれない、その時子供らと離れているのは母にとってまことに苦痛であろうと云う父の深い思慮から出たことであった。若いものらは、その旅行へ行って、帰って、しかも余程後になるまで父のこの心の計画は知らなかった。
 母はこの欧州旅行を非常によろこんだ。そして旅に出た日からかえるまで船の中ででもホテルでも、殆ど一日もぬかさず旅日記を書きとおした。
 医者は危険だと云ったような一世一代の大旅行を無事になしとげたこと、旅日記をもかきとおすことが出来たこと。それらを、母はみんな例の霊の加護によるものという風にだけ解釈した。翌々年に膵臓膿腫を患い、九死に一生を得たときも、母が讚歎したのはやはりその力であった。母は、彼女を生かし、楽しますために周囲の人々が日夜つくしている心づかいや努力を、そのものとして感じとり評価する能力は失ってしまっていた。母が家庭の中で自分のおかれている地位を、ひろい社会の中ででも自分のおかれる地位であるように思いこみ、若いうちの自身の勤労と思いやりとを忘れたということは、母にとって何という悲しいことだったろう。ぐるりの者にとって幾何か切ないことであったろう。
 しかも、実際家としての母は未だ眠りきってしまわず、一九二九年の恐慌以来、母の収入をも半減させた世の中の変化については、敏感に反応した。そういう面での敏感さはいつしか母の好きな気位というものをも卑屈にさせた。
 一九三二年に私が結婚した時、母は宮本を見て深くよろこんだ。そしてこんどはお前も幸福になれそうだね、と云った。しかし、去年の暮以来、母は若い時から自慢の直感で娘の夫からうけた感じはどこかへ押しこんでしまって、娘とその夫とを、自分から押し離すように行動した。
 母にとっては自分をそのように行動させる真の動機がどういうものであるかということは恐らく考えてもわからなかったであろう。晩年の母は、懐古的になるとともに祖父西村茂樹の現代にあっては保守というべき側面ばかりを影響された。

 母の一生は女ながらいかにも活々と、多彩に、明治八年頃から今日に至る略《ほぼ》六十年の間に日本の中流の経験した経済的な条件、精神的な推移の歴史を反映している。母はめずらしく強烈な性格の女性であり、人間としての規模も小さくなかった。母の属した社会の羈絆がそれを圧しつけて萎えさせたり、歪めたりさえしなかったら、鍛錬を経て花咲くべき才能をも持っていたと思う。
 母は、今の世の中のしきたりにおとなしく屈従して暮すには強く、しかし強く社会的に何事かを貫徹して生きるためにはまだ弱かった。或る意味では世間知らずで家庭にだけ根をおいた感傷的な、そうかと思うと打算的な女性であった。正当なはけ口を見出せない母の熱情が、いきなり妙な方向へふき出す時、その焔の一番あぶない煽りをうけるのは常に父や私であったが、特に私は、おおこわい! と横とびに飛びのきながら、母が可笑しな風にむきになるのを愛し、悦び、笑い、時々はそっと忍びよって火をつけて逃げたりしたのは幾度であったろう。
 この一二年、私は大変貧乏に暮した。母のところへ行っていきなり手をさし出して、さア頂戴、よ、頂戴よ! と猶胸元へ手をさしつけるようにすると、母はその年でも皮膚の不思議なほど美しい顔をうしろにそらすようにして、妙に間誤付ながら、なんだよ、なんなのサと狼狽した。ちり紙よ! 私がそう云うと、母は、なんだろう、このひとは! と云いながら安堵した様子をかくさず、袂から懐紙の四つに畳んだのを出してくれる。私は、それをとりながら母の顔を見て、お母さま、間違えたな、吝ん坊! と大笑いした。私の勢こんだ様子で、母は小遣いをくれというのかと思って警戒するのであった。
 子供の時分から母と一番多く衝突をした娘である私、生活の上で一つ一つと心にのこるような大きい事柄では頑固な程母の期待とは違うように動かなければならなかった娘である私が、長い歴史の目で見れば、女性としての母の生涯の一番正統な根気づよい発展者であろうと希っているものであり、また美醜の力強く錯綜した人間らしい母の生活の隅々までを理解して、それをリアリスティックに愛そうとする者であることを、果して母は知っていたであろうか。



底本:「宮本百合子全集 第十七巻」新日本出版社
   1981(昭和56)年3月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十五巻」河出書房
   1953(昭和28)年1月発行
初出:不詳
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2003年9月15日作成
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