は、敏感に反応した。そういう面での敏感さはいつしか母の好きな気位というものをも卑屈にさせた。
 一九三二年に私が結婚した時、母は宮本を見て深くよろこんだ。そしてこんどはお前も幸福になれそうだね、と云った。しかし、去年の暮以来、母は若い時から自慢の直感で娘の夫からうけた感じはどこかへ押しこんでしまって、娘とその夫とを、自分から押し離すように行動した。
 母にとっては自分をそのように行動させる真の動機がどういうものであるかということは恐らく考えてもわからなかったであろう。晩年の母は、懐古的になるとともに祖父西村茂樹の現代にあっては保守というべき側面ばかりを影響された。

 母の一生は女ながらいかにも活々と、多彩に、明治八年頃から今日に至る略《ほぼ》六十年の間に日本の中流の経験した経済的な条件、精神的な推移の歴史を反映している。母はめずらしく強烈な性格の女性であり、人間としての規模も小さくなかった。母の属した社会の羈絆がそれを圧しつけて萎えさせたり、歪めたりさえしなかったら、鍛錬を経て花咲くべき才能をも持っていたと思う。
 母は、今の世の中のしきたりにおとなしく屈従して暮すには強く、しかし強く社会的に何事かを貫徹して生きるためにはまだ弱かった。或る意味では世間知らずで家庭にだけ根をおいた感傷的な、そうかと思うと打算的な女性であった。正当なはけ口を見出せない母の熱情が、いきなり妙な方向へふき出す時、その焔の一番あぶない煽りをうけるのは常に父や私であったが、特に私は、おおこわい! と横とびに飛びのきながら、母が可笑しな風にむきになるのを愛し、悦び、笑い、時々はそっと忍びよって火をつけて逃げたりしたのは幾度であったろう。
 この一二年、私は大変貧乏に暮した。母のところへ行っていきなり手をさし出して、さア頂戴、よ、頂戴よ! と猶胸元へ手をさしつけるようにすると、母はその年でも皮膚の不思議なほど美しい顔をうしろにそらすようにして、妙に間誤付ながら、なんだよ、なんなのサと狼狽した。ちり紙よ! 私がそう云うと、母は、なんだろう、このひとは! と云いながら安堵した様子をかくさず、袂から懐紙の四つに畳んだのを出してくれる。私は、それをとりながら母の顔を見て、お母さま、間違えたな、吝ん坊! と大笑いした。私の勢こんだ様子で、母は小遣いをくれというのかと思って警戒するのであった。
 子供の時分
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