界への飛翔という風に、現実の敗北を粉飾してその心にうけとったのであった。
その時十三ばかりの少女であった妹は、自分も自殺したら母が少しは可愛がってくれるようになるのだろうかと思い、散々泣いたということを、後になってそっとうちあけたことがあった。
明治開化期の影響をうけて、宗教だの霊降術だのに対しては批評をもって暮して来た母は、弟の死後、一種剽悍な惑溺で息子の霊の力が母である自分を守っているということを信じるようになった。この霊との交渉においては、夫も他の息子や娘もいっさい除外された。
独占的な霊との結合の感情は、日常生活において母を寛大にするよりも、却って主我的にしたのであった。
一九二九年の春から秋にかけ、父はモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]にいた私をのぞいた一家四人をひきつれて欧州旅行を企てた。父は全く母の最後の希望を満すためにこの身分不相応の旅行を決行したのであった。息子夫婦と末の娘までをつれて行ったのは、すっかり健康の衰えている母がいつどこで最後の病床にたおれるかもしれない、その時子供らと離れているのは母にとってまことに苦痛であろうと云う父の深い思慮から出たことであった。若いものらは、その旅行へ行って、帰って、しかも余程後になるまで父のこの心の計画は知らなかった。
母はこの欧州旅行を非常によろこんだ。そして旅に出た日からかえるまで船の中ででもホテルでも、殆ど一日もぬかさず旅日記を書きとおした。
医者は危険だと云ったような一世一代の大旅行を無事になしとげたこと、旅日記をもかきとおすことが出来たこと。それらを、母はみんな例の霊の加護によるものという風にだけ解釈した。翌々年に膵臓膿腫を患い、九死に一生を得たときも、母が讚歎したのはやはりその力であった。母は、彼女を生かし、楽しますために周囲の人々が日夜つくしている心づかいや努力を、そのものとして感じとり評価する能力は失ってしまっていた。母が家庭の中で自分のおかれている地位を、ひろい社会の中ででも自分のおかれる地位であるように思いこみ、若いうちの自身の勤労と思いやりとを忘れたということは、母にとって何という悲しいことだったろう。ぐるりの者にとって幾何か切ないことであったろう。
しかも、実際家としての母は未だ眠りきってしまわず、一九二九年の恐慌以来、母の収入をも半減させた世の中の変化について
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