捨するよ。その代りよく僕の名をつけといてくれね。僕がクビんなったら大いに小野救済カンパを起してもらうから……」
 大体女事務員たちのやることだ、と下目に見た態度がみんなにある。ワイシャツのカフスを引こめながら軽蔑した口つきで、
「僕は知らんね。会社の責任だろう。こんなことは――」
と云う者もある。社員の間で言葉数は多いが金の方は思ったより集まらない。
 顔を合わせると、ミサ子もれい子も、
「男のひと達、始めっから出す気がないんだもの」
と、感想は一つだった。
「五十銭や一円、カフェーへ一足よったと思えば何でもないのにねえ」
 女事務員連ではる子の事件をよく知っているものは真実わが身にひき添えた同情を示した。
「私ほんとはもっともっとしたいんですけれど、実は去年からストップなのよ。あしからずね」
 そう云えばミサ子や柳にしろ、一昨年頃から月給はちっとも上らないままだ。
「私、はる子さんてひと、よく知らないんだけど……」
と、まわりの振り合いを女らしく考え、それだけで出すものもある。
 然し、どっちにしろ、××○○会社の内部ではあっちこっち働いている課の違う女事務員達の間に、廻状をまわすだけが、一仕事だった。
 執務時間中、女事務員が公務のほか他の課へ行くことはやかましく禁じている。けれども、確実に対手をつらまえようとすれば執務時間を狙うしかない。
 ミサ子は、他課へ廻す書類を打ちあげると、さり気なく検閲をさせて自分のところへ持ちかえった。暫くしてから、ああ、とびっくり思いついたようにその書類を握って素早く室を出た。本来こういう仕事は給仕の役なのだ。藤色のミサ子の事務服のポケットには「佐田はる子さんのために」と書いた廻状が入っている。――

        十二

 はる子の代りだと云って新しく入社した太田千鶴子が、女事務員たちの間に不人気だ。
「今度入ったひと、凄いわね」
という第一日の印象が、だんだん、
「ちょいと私どもとはお人柄がちがうのね」
という風に濃くなって行った。
 千鶴子の方でもまたそういう素振りを憚らず見せた。例えば会社へ出勤して来る服装《なり》にしろ、みんなは銘仙程度だのに、千鶴子の羽織はいつも縮緬だ。フェルト草履にしろ、ハンド・バッグにしろ、自分たちが僅の月給から工面して買うものとは格が違うことをみんな敏感に見てとった。ところが、三日ばかりすると益本が、
「ちょいと、ニュースよ。今度来た太田さんて太田淳三の姪《めい》なんですって!」
と、眼を大きくして報告した。
「重役の?」
「そうなのよ」
「どうりで、われわれとは違うわけだわね」
 サワ子が苦笑いを泛べた自分の顔を鏡にうつしながら、どこか自棄《やけ》っぽい口調で云った。
「そいでね、ここの月給なんかほんのお小遣いなんですってさ」
「ふーん」
 ××○○会社では、女事務員を箇人紹介でだけ雇うのだが、そのとき紹介者が会社の相当どころの者であるとないとでは、入社してからの待遇がちがった。重役の縁辺の者だと、入社当時の月給は同じだが、一年ずつの定期昇給の率や賞与の率がずっと高いのであった。
「――私だってこれで憚りながら入るときは、重役の紹介よ」
 れい子が手を洗いながら云った。
「へえ……そうなの! 誰?」
「外田権次郎」
「人事課のひとったら、外田さんの何にお当りですかって、そりゃしつこく訊いたわよ」
「姪ですって云えばいいのに!」
 柳の言葉にみんなが笑い出した。
「何でもないんですって云っても、どうかありのままおっしゃって下さいだって!」
「卑怯だわよ。大体会社のやりかたったら!」
 サワ子が癇のたった声で云った。
 太田千鶴子に対する漠然とした共通な反感が微妙に働いてもとからいた××○○会社の女事務員たちの心持を一つにまとめるきっかけ[#「きっかけ」に傍点]となっているのがミサ子にさえ、はっきり感じられた。はる子の慰問金あつめの仕事が、太田の来てからの方がやり易くなったのでもそれは分る。――
 間もない或る日曜日、ミサ子は下宿の水口の外へ盥《たらい》をもち出し、勢よく肌襦袢の洗濯をやっていた。
 一週間朝から夕方まで丸の内のオフィス・ビルディングの中で、コンクリート床を擦る靴音、壁に反響するタイプライタアの響にのまれて暮していると、塵の少ない休日は閑散な空気の工合まで肌ざわりが違うように感じられる。
 水口のわきにあらい竹垣があって、そこに山吹の幹が荒ッぽく繩でくくられている。ざぶ、ざぶ濯いではその水をミサ子は山吹の根元の小溝へあける。
 牛込の姉の暮しが心に浮んだ。同居の話を断ったのは、気の毒のようだがよかったと思った。
 ミサ子も姉の文子も同じ生れではあるが、こういう激しい世の中にあって、生きる態度は別々であった。ミサ子にはこの頃自分たち小ブルジョアの女の生きかたというものが、やっと腹にはいって来た。××○○会社の女事務員という現在の社会での自分の身分と、自分たち働いて食って行かなければならない女として一人一人が胸にもっている不平不満、希望とをつき合わして見れば、実質のない澄しかたなどしておれない。自分がつまりプロレタリアの一人の女だということがだんだんはっきり分ってミサ子はこの頃腰のすわった、闘いの対手がわかった確《しっ》かりした心になっているのであった。
 洗濯物を洗面器へ入れてもって上り二階の自分の窓前の細い竹竿にかけていると、下で、
「今日は……」
という声がする。小母さんがいないと見えまた、
「――こんにちは……」
 ミサ子は、いそいで玄関へ下りて行った。
「いたのね、よかった!」
 格子の外に柳と思いがけない坂田とが顔を並べて立っている。赤と藍の細かい縞の割烹前掛姿のミサ子は、
「まあ……」
 栓をとって格子を開けた。
「どっかへ出かける?」
「いいえ! さ、上って下さい」
 柳はちょいちょい遊びに来たが、坂田は初めてだ。二階へあがると帽子を畳へ放り出しておいて窓の前に立ち、外の景色を眺めた。
「なかなかいいじゃないですか」
「ホラ、そこに、むこうの屋根から見えるの落葉松よ」
 柳が、わきに立って指さして説明してやっている。戸棚から坐布団を出しているミサ子に、
「あの鸚鵡《おうむ》まだいるの?」
「いるわ」
「何です?」
「あの家に変な鸚鵡がいて、イヤー、イヤーって鳴くんだって」
 林檎を柳がもって来た。それをむいて食べながら会社のこと、はる子の慰問金のこと、エスペラント講習会のことなど三人は話した。
「――内務省なんかでも、この頃は実は実にうまくクビにしますよ。もとみたいに一どきにドッとは決してやらないんです。いつの間にかいない。おやと気がついたときはもう夙《とう》に引導をわたされている。――手が出ないですね」
「ああね、ミサ子さん、あなたこの頃やっぱりちょいちょい左翼劇場見に行くこと?」
 柳がスカートの膝をくずして坐り、蕎麦《そば》ボールをつまみながらきいた。
「大抵行くわ」
「私ね、昨夕《ゆうべ》行って来たんだけれどね……あなたどう思う? 私せっかく観るのにてんでんばらばら一人一人見てそれっきりにしておくの惜しいと思うんです。きっと会社にも芝居ずきはいるんだから、誘いあって観て、あと座談会でもしたら、さぞ愉快だと思うんだけれど……」
「――ほんとに!……」
 ミサ子は、微かに顔を赧《あか》らめながら、
「私、生意気みたいだけど、実はそんなようなことも考えてはいたのよ、こないだっから。……私達、全く会社の中では切り離されていて仕様がないから、せめてそんなことででも集まれたらどんなにいいでしょう」
 柳は考えぶかい黒眼が一層黒く輝くような表情で、
「はる子さんのお金集めはいつ頃すむかしら」
と独言《ひとりごと》のように云った。
「さあ……もう一週間ぐらいのうちにはすむわね」
「沖本の穴銭がぶつぶつ云い始めたらしいのよ、少しぐらいまわり切らなくても、崩されないうちにそっちは一応切りあげて、これを手がかりに演劇サークルみたいなものをこしらえたらどうかと思うんだけど」
「いいわ! 会社であれだけにみんなの気が揃ったことってはじめてなんだから、これっきりにするのは何だか本当に惜しいわ」
 柳が坂田に向って、
「××○○会社の女事務員はお上品だから、どんなに食堂がひどくても、食べ物のことから騒ぐなんてことは出来ないんですよ」
と鷹揚に笑った。坂田は、
「ふむ」と云ったぎり、別に皮肉な顔もせず、また笑いもしない。
 ふだん何だか落着ないサラリーマンばかり見ているミサ子には坂田のその様子が好意をよび起した。柳たちはざっと二時間ばかりいて帰りかけた。が梯子《はしご》の下り口で、
「ちょっと」
 柳が後からついて来るミサ子の体をかるく押し戻して、小さい封筒に入れたものを握らした。
「これ読んで――あと焼いちまって! いい?」
 ミサ子は合点した。そして渡されたものを内懐へ深くさし入れ、すぐ柳の後につづいて降りて行った。

        十三

 焜炉《こんろ》を座敷の真中へ持ち出し、ミサ子はその中で柳がおいて行ったものを焼いている。割烹前掛をかけた両膝を焜炉のふちへ押しつけるように蹲んで、ミサ子はだんだん燃える紙に目を据えている。左手の先を割烹前掛の袖口の中へひっこめ口元を抑えている。さっきまで柳や坂田の喋っていた窓の障子は今もあいたままで、そこから風のない日に照る欅の木の梢が屋根越しに東京の郊外らしく眺められる。煙を出さず、明るい午後の森閑とした座敷の中で、明るい焔を立てて紙が燃えて行く。
 ミサ子は何とその心持を表していいかわからず、凝っと袖で口元を抑えているのだ。これまでにしろ、小説で読んだり、新聞で読んだりして、種々の経営の中に強い、闘争的な左翼の組合のあることは知っていた。だが、柳から渡された全協一般使用人組合のニュースは、ミサ子に、漠然と頭で考えていたのとはまるで違う感動を与えた。組織は思いもかけないところまでひろがっている。〔三字伏字〕の内部からさえニュースが出ている。――
 宏大なビルディングの聳え立つ丸の内一帯の風景が、からくり[#「からくり」に傍点]をわって、現実の底から初めてミサ子の前に立ち現れた。最後には必ず大衆によって征服されるべきものとしてそれは示されているのだ。
 ミサ子もこの頃は、現在の社会で多くの者を不幸にしているのが一人二人の人間の力、まして××○○会社の穴銭沖本だなどとは思っていなかった。この資本主義の世の中そのものが組立て直されなければならない。だからこそ、××○○会社の内でもミサ子は知らず知らず女事務員たちの間にあって、柳などの助手のような立場に立ち、みんなの不平をあつめたり、一致した行動へみんなを召集したりする仕事に加わるようになったのであった。
 柳が恐らく分会員であろうということは、ミサ子をちっとも驚かせなかった。何か当然だという落付いた心持さえした。自分がこんなに闘争の組織に近くいるのだという新しい自覚。自分までその組織に吸いよせられるであろう程、この日本の中に大衆の力はもり上っているのだという生々しい実感が、ミサ子を腹の底から揺るのであった。
 焜炉の中ですっかり燃えきった紙が黒いカサカサした屑になってしまうまでミサ子は身じろぎもしないで見届けた。それから四辺に飛ばさないように焼屑を焜炉の下へおとし、それを片づけた後の座敷を掃き出した。思い込んで下を向いたまま丁寧にゆっくり箒をつかいながら、ミサ子はこういう一つ一つのことを自分が何とも云えぬ深い愛と注意とでやっているのに愕《おどろ》いた。こういう文書を始末する心持は独特であった。跡かたもなく焼き、掃き出しながら、しかも逆に焼きすてたものの内容が一層身につくというような切実な感じなのだ。
 翌朝、ミサ子はこれまでにない希望と観察に満ちた気持で丸ビル前の広場に溢れる勤人、女事務員の群衆をながめた。
 ××○○会社の通用門を入ろうとするところへ、ちょうど向うから柳がやって来る。ミサ子は思わず包みを持ちかえながら待ち合わした。
「お早う……
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