ない方だった。こんなきっぱりしたことを云うとは考えていなかったのだ。
 柳はミサ子の顔をのぞき込むようにして、
「あなたも賛成?」
ときいた。
「私もいいと思うわ」
「はる子さんが、その後どんな様子か……今日とてもみんな本気になってたわね、あの調子をくずさないようにしなくちゃ駄目ね。退社とわかったら、すぐやりましょうよ、ね。お金をあつめる責任者を誰か三四人きめて……ね」
「ミサ子さん、ひと肌おぬぎなさいよ」
とれい子が笑った。
「あら……私なんか」
「御謙遜はいりません。……男の社員からだって、あつめられるだけあつめましょうよ。はる子さんは新米の社員が書式を間違えた原稿をよこしたって、ちゃんと直して打ってやるぐらいだったんだもの、まさか知らん顔しやしないわ」
 有楽町で別れるとき柳はミサ子に、
「じゃいいわね、あのこと忘れないでいて下さいね」
と念を押した。
 落付いているのと、技術がいいのと、どこか人をひきつけるところがあるのとで、ミサ子は××○○会社へ入った間もなくから、柳と親しくなった。
 どっちかと云えば人目をひき易い美しい顔だちだが、柳は大して身装を飾らなかった。大抵白絹のブラウスにスカートといういでたちで、それがまたよく似合っていた。
 ××○○会社の女事務員の間に雑誌購読会をこしらえたり、四十分ピクニックをはじめたりして、ミサ子は、初めはただ人望のあるやりてだと柳を解釈していた。
 この頃になって、ミサ子自身の考えかたが少しずつかわって来るにつれ、柳に対する解釈もかわって来た。柳が辛抱づよくミサ子たち××○○会社の女事務員にいろいろ思いつきを実行してゆくところには、ミサ子が感服する根気よさがあった。そして、一つのことをよく考えて見ると、決して偶然の思いつきで、バッタリ途切れてしまうという風なやりかたはされていない。エスペラント講習会へ通っていることを、ミサ子は柳にだけ打ちあけた。
 はる子の慰問金をあつめる計画が自分にうちあけられたことを、ミサ子はうれしく思い、責任を感じた。
 四五日後、食堂ではる子の話が出たとき、とよ子が急に声をひそめて、
「ちょっと! もうはる子さんの代りの人が来るんですって!」
と一同に報告した。
「どうして?」
 みんな意外な顔を見合わせた。柳が、
「きのうだか、一ヵ月は休職のまんまにしとくって話だったじゃないの?」
「そうなのよ、でもそれは表むきでね、はる子さんのとこへ手紙か何か会社から行ったらしいわ」
 とよ子の話によると、はる子の病気は邦文タイプを打つ以上一旦なおってもまたすぐわるくなるから、この際、もっと健康に適した職業にかわることを会社から勧告して来たというのだ。

        十

 ××○○会社では食堂が地下室と二階と、ふたところに分れてあった。
 二階の食堂の方は日に一円の賄をたべる連中ので、地下室は、ミサ子たちのような女事務員や給仕をはじめ、月給百五六十円までぐらいの社員達のためだ。上と下とでは階級がはっきり分れ、身なりも違った。上の食堂なんか見たことのないものが、地下室の細長いテーブルに向って、せかせか朝飯ぬきの昼をたべた。
 その地下室の食堂の白い壁に、食物のカロリーを表に書いた厚紙が貼ってあった。大体、幸楽軒の請負経営にはこれまでもみんな不満で、不平が絶えない。カロリー表が貼り出された当時、男の社員たちは、片手をポケットへ突こんでその表を見上げながら、
「オイ、冗談じゃないぜ! これから鰊《にしん》と大豆ばっかり食わされるんじゃないか。科学もこうなっちゃ侘しいね」
と云った。
  ┌─────────────────────┐
  │知識労働者の一日所要カロリーは二千三百です│
  └─────────────────────┘
 表のわきにこう書いてある。誰もそれを見ていい心持はしなかった。それだけ食えたら黙っていろ、というような押しつけがましい感じなのだ。
 近頃、その地下食堂の食事がわるい続きだ。こないだはる子が悪いという噂があった頃から、ミサ子たち一団の女事務員連中が「モーリ」へ出かけるのは、今日では五遍目になる。
「ね、ちょっと! 馬鹿にしてるわね、蒟蒻《こんにゃく》と人参のお煮つけが、何千カロリーあるってんでしょう!」
 しづ子が、「モーリ」の小さい丸い腰かけの上で窮屈そうに袂をかき合わせながら小声で腹立たしそうに云った。
「……でも狡いわ。見てて御覧なさい、あのカロリー表にはっきり書いてない材料ばっかりつかっているから」
 れい子が、穏やかな、けれども飾りけない口調で、
「大抵のとき、マアあの調子じゃ八百から九百カロリーがせいぜいね」と云った。
「私たちの二十銭から毎日何百カロリーかずつ儲けさせているんだから大きいもんだ」
 支那そば[#「そば」に傍点]を食べ初めながら柳が、
「ねえ、どう思う? 私、食堂の問題はみんなでもう少し真剣に考えなくちゃならないと思うわ。わたし達家で御馳走をいくらでもたべて補充の出来る身分じゃないもの。謂わばお昼が一等主な食事なんだもの。あんなもの食べさせられて、栄養不良で病気になればすぐクビ[#「クビ」に傍点]じゃ、余り話にならないじゃないの」
「全くだわねえ!」
 しづ子が賛成した。ミサ子は柳の言葉やそれに反応するみんなの気分を、我知らずこまかく注意した。はる子の事件は女事務員の大多数に、××○○会社に対する一つの共通な不満感を与えていた。食堂の不平だって、それと心持のどっかでは絡んでいるのだ。
 ミサ子は、笑いながら、
「どう? 賄征伐やっちゃ!」
と云って、四五人の顔を見渡した。
「あら、いやだ……」
 れい子がそれを、おさえて真面目に云った。
「考えると、でも変だわよ。同じものを給仕さんたちは十銭でたべてるんでしょう? 月給百五六十円の人たちだって二十銭とすれば一番割のわるいのはわれわれ階級じゃないの。われわれ女連が一番しぼられてることになるのよ!」
「だって、まさか私達が食べもののことからストライキも出来ないじゃないの、みっともなくて……」
 ぬるい茶番をのみかけていたミサ子がそれを置いて熱っぽい調子で云った。
「私達がそういう心持をすてない限り、むこうじゃそれを利用してつけ込んで来ると思うわ」
「――そりゃ確にそうね、――でも……」
 しづ子、依田そういう割合元気な連中もこれに対しては黙りこんでいる。――
 そのまんま「モーリ」を出て、みんなはぶらぶら東京駅の方へ歩いて行った。
 デパートの送迎自動車だまりの広場で白いテントが陽に光って、人の列が見えている。黄色い葉をのこした細い銀杏の若樹のまわりや、暖められたガソリンの軽い都会らしい匂いの中を絶間ない自動車の往来を縫ってはあっちこっちのビルディングから出て来た連中が素頭で散歩している。
 この大勢の、大して愉快な希望もなさそうにして歩いている殆どみんなが月賦の洋服を着、女房子供をかかえて去年から賞与も半減かまるで無しかで日々同じように働かされているのだと思うと、ミサ子は心の底でおっかないように感じた。
 実際丸の内の気分も、この二三年に変った。ミサ子が女学校時分ここを通る毎に感じたような、自信ありげな、燦々光るような雰囲気は、この頃の丸の内のどこの隅にもない。ぶらぶらと歩いている連中も気むずかしげに巨大なビルディングの下で、小さくごみっぽく見える。
 東京駅の正面車寄のわきの槇の植込みの前で三四人もう頭の薄くなった連中が日に向って並んで、ニヤニヤしながら仲間におとなしく素人写真を撮られていた。

        十一

 そろそろ時間になるので、ミサ子が衝立《ついたて》のかげで仕事着のスナップをかけているところへ、
「ちょいと」
 廊下かられい子が手招きをした。
「なアに?」
「化粧室へいらっしゃいよ、はる子さんから手紙が来たんですよ」
 思わず足を早めて行って見ると、廊下からは見えない一方の隅の鏡の前へ、柳をはじめしづ子、サワ子そのほか二三人がかたまって凝っとしている。
 れい子が真面目な小声で、
「大井田さん来てよ、見せたげて下さい」
と云った。黙ってしづ子が手にもっていた藤色のレターペーパーをミサ子の方へ出した。
 鵞堂流にくずした細いペン字が紙を埋めている。ミサ子は、書き出しのありふれた時候の挨拶のところはいい加減にしておいて、「私の今度の病気につきましては、本当にみなさまの心からの御親切なお慰めの言葉をいただきまして」というところから先を、気をつけて読んだ。はる子は持ち前の地味な気質から、自分の心持は表面に出さないように努めているのが文章の調子でよくわかった。それでも、この手紙を××○○会社の同僚一同へあてて書く気にまでなった圧えきれない熱いものが、切ないほど細い女らしい字のかげに溢れている。
「一昨日会社から使で解雇通知と金一封をいただきました。あけて見ましたら、百五十円也入っておりました。不束《ふつつか》ながら私が七年間こんな体になるまで会社につくした労力は、百五十円のねうちでございましたのね。ホホホホ………」
 ミサ子は、この文句を繰返し読んでいるうちに頬っぺたの下の方が鳥肌だって来るような強い感じにうたれた。
 みんな体を大切にして元気で暮すように。そこで働いていた間、みなさんが自分に優しくしてくれたのを忘られず、挨拶を書く。万一気がむいたら遊びに来てくれ。そういう言葉の終りに、さりげなく「私の病気も伝染性ではないそうで、そればかりはせめてもと思っております」といかにもはる子らしくつけ加えてある。――
 ミサ子は、しづ子に手紙を返しながら、
「慰問金のこと、どうなって?」
と、柳の顔を見た。
「私今からすぐいくらかでもみんなの力でしてあげたいと思うわ」
「賛成だワ。はる子さんの口惜しい心持は私にだって実によく分るんですもの!」
 食堂の不平を話したときには体裁がわるいと尻込みしていたサワ子も、はる子の手紙に動かされ、熱心に相槌を打った。
「――惜しいことにもうゆっくり相談してる時間がないわね、……で、どうしてやる? 誰か係りをすぐ決めようじゃないの」
 柳の言葉をひったくるようにれい子が、
「雑誌購読会の名でしましょうよ」
と提案した。
「個人個人の名を出すと穴銭がまたうるさいから……」
「何か勧誘状みたいなものがいりゃしない?」
 しづ子が訊いた。
「あった方がいい。誰が書く?」
「――柳さんお書きなさいよ!」
 例の落付いた口調で柳が云った。
「じゃ、私退社までに下書こしらえておくわ。それをみんなで相談して清書しましょうよ」
「早い方がいいわ、ね!」
 ミサ子が云った。
「あしたっからすぐやり始めましょうよ」

 れい子、サワ子、ミサ子がめいめいうけ持を分担して××○○会社ではる子を幾分なりとも知っていた人々の間に慰問金募集をやることになった。
 昼休みに地下室の食堂で、隅の方の長|卓子《テーブル》にかたまっている給仕連のところへ行ってミサ子とれい子とが云った。
「はる子さん、クビになったのよ、いよいよ。あんなにいい人だったのに病気してるし、本当にお気の毒だから、私たち慰問してあげようと思うの。お出しなさいよ、二銭でも一銭でもいいわ、気は心だから……」
「――へえ。じゃ僕大枚五銭!」
「おい須田君、電車賃かしてくれるかい? かす約束してくれたら十銭出すぜ僕」
「じゃ、これ」
 一円二三十銭集った。だが、男の社員たちのところへ勧誘に行くと、ミサ子は一種の腹立たしさを感じた。多くの者ははる子の首切りにも慰問金募集にも極めて冷淡だ。ミサ子がさし出す勧誘状を手にも取らず、椅子へ腰をずりこましてかけたまま読んで、大町という社員は、
「ふーむ、こりゃ誰が書いたんだい? なかなか文章家じゃないか。ちょいとほろりとさせる効果があるぜ。さすが女だね」
と云った。
「どれ、どれ」
 眼をせばめてわざとらしく煙草の煙をさけながら、別の一人が、
「――佐田って……この女亭主持だろう?」
「とんだカンパがはじまったもんだな。じゃバット一箱分喜
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