×○○流の気分が入ってたと思って、後めたい心持だった。
「――丸ビルの事務所へよってもかまわないかしら」
「かまうもんですか! でもあすこだっていつまでいれるか知れたもんじゃないわ」
「かわるの?」
「だって、ウダウダ云うの聞かなけりゃクビだもの。――まあ大抵一つところ三月だわね」
ミサ子も自分の住所と略図とを書いてわたした。
テーブルから立ちしなに、みどりは着物の襟元をひっぱりながら(彼女の方を三人づれの学生がじっと見ているのにかまわず)、
「……ああア、また草履も買わなくちゃならないし」
と、泥水がしみてきたなくなった藤色の草履を眺めて云った。
「鼻緒なんか、でも新しいようじゃないの」
「ええ、本当なら買ってまだいくらもたちゃしないのよ。こないだおひるっからひどく雨が降ったときがあったでしょう。私がちょいとツンツンしたって、あの雨ん中をわざと傘がないのに集金にやらされたんだもの……たまりゃしない。――」
神田駅で別れて省線にゆられながら、ミサ子はみどりの口紅のあとの残ったストローの色を目にうかべた。
今夜の話で、然しミサ子たち××○○会社の女事務員がブツブツ云いながら結局納まっているいろいろのわけがハッキリしたように思えた。
××○○会社には女事務員でも、支店からまわって来たりしてかれこれ七八年勤めている人が一人二人いた。この不景気でもクビきりをやたらされないという安心が、ひとつは××○○会社の女事務員たちを引込思案にさせている原因だ。
七
その日は朝っからまるでいそがしかった。やっと暇をみてミサ子が洗面所へ行こうとすると、むこうから靴音を立てて庶務の沖本がセカセカ小使とやって来た。
「どうしたんだね、佐田君がぶったおれたっていうじゃないか」
「アラ!」
ミサ子はびっくりした。
「ほんとですか」
「仕様がないよ。だから御婦人は……」
小走りにミサ子が沖本と洗面所へ行って見ると、ほんとだ。白いタイル張の床へじかに事務服を着たまんまの佐田はる子が倒れて、掃除掛の手拭を姉さんかぶりにした小母さんが、ヤッと七三に結ったはる子の頭だけ黒綿繻子の仕事着をきた自分の膝へ支えている。
「あら、あら、心配だワ、ちょいと! はる子さん! さ、のんで! これを飲んで!」
きたないのをわすれ、自分も床へ膝をついた岡本しづ子が真蒼になってコップについだ水を何とかしてのまそうとしているところだ。
三人ばかりの男の社員がかたまってそれを見ていた。
「それじゃ駄目だよ。歯をくいしばってるもん」
しづ子が、
「はる子さん! はる子さん!」
おろおろして気を失っている対手の帯の辺をゆすった。
「――口うつしがいいんだがねエ」
小母さんが云った。
「おい、平田! どうだ一つ!」
「ばか、人工呼吸すれば、脳貧血ぐらいすぐだヨ」
云うばっかりで誰も実際には手を出さないところへ、
「一体、どうしたんだ」
沖本がかがみこんだ。
「へ、あたしがね、ここんところを拭いていると佐田さんがはばかりから出て来てね、ああ気分がわるいって、窓の方向いてぼんやりしてたかと思うとよろよろっとして倒れそうんなったんでネ、この床で頭をうっちゃ一たまりもあるめえって、仰天してつらまえにかかったって、あなた、こっちはこの体だもの、もろにへたっちゃって……」
沖本は、半分ぐらい説明をきくと、黒く垢のつまった爪の生えた指で事務的にはる子の瞼をひっくりかえして見た。
「大したことはあるまい。――もう一人か二人つれて来い、ここへころがしとくわけにも行くまいから」
「沖本さん! 死んじゃうんじゃないかしら」
しづ子が泣きそうに云った。
「――ふ、こんなことで死んだら女なんてものは一生に二十度ぐらい生れかわって来なくちゃなるまい」
「体のせいだねエ」
「沖本さん!」
ミサ子が沖本の後からつよい声を出して呼んだ。
「医者呼んだんですか」
「いいだろう」
「ひどいわ! だってあなたに容態なんか判らないじゃありませんか。若し、何かあったらどうするんです」
沖本はミサ子のいうことになんぞ耳をかさず、小使がやって来るのを待って、
「それ」
と、唇の色をなくして倒れているはる子の方を顎で掬った。××○○会社には、一脚百何十円とかする鞣皮張《なめしがわばり》の安楽椅子が二十脚も並んだ重役会議室があった。が、設備のある医務室というものはなかった。
二人の小使にぐったりとだかれてエレベータアの方へ行くはる子のわきについて歩きながら、しづ子が後毛《おくれげ》を頬にこぼして、
「小母さん、すみませんがよく見てやって下さいね、ほんとに私心配だわ」
と云った。
「ああよござんすヨ」
沖本がその連中について形式だけの応急室につかわれている室の方へ降りて行かず、スッと庶務の方へ曲る後姿を見ると、ミサ子はムラムラとした。
五時になるのを待ちかねてミサ子はこんどは柳を誘い、二階の端《はず》れにある応急室へ行って見た。
ドアをあけると室の中はもうガラン堂だ。はる子がいたときあげたのだろう。茶色のブラインドが一枚だけ巻き上っているところからだけうす明《あかり》がさして、むこう側のビルディングの窓が往来をへだてて見えている。毛ピンが一本床に落ちていた。ミサ子はそれを見ると淋しい気がした。
「大丈夫だったのかしら」
「……さア……」
洗面所掛の小母さんにきいたら、気がつくと沖本が来て、
「どうだね、そろそろもう帰れるだろう」
と云ったので、はる子はまだふらつくが守衛に自動車をよんで貰って独りでかえったということだ。
「どこなのかしら家って」
「代々幡《よよはた》だわ」
「――自動車代、会社で出すのかしら」
柳は、
「出すものか!」
と云ったぎり黙り込んだ。
八
二三日経った。けれども、はる子は出勤して来ない。
やがてはる子を知っている××○○会社の女事務員の間に、はる子さん大分悪いらしい話だわという噂がひろまった。
洗面所の鏡に向って髪を直しながら、
「はる子さんの、その肺リンパって、肺病なのかしら」
と、瘠ぎすの依田とよ子が云った。わきで、ザア、ザア水を出して手を洗っていた柳が、
「肺病って――結核じゃないのヨ。でもあたし達の職業病だわ。邦文タイプを永くやってると、力を入れる工合でみんなそうなるのよ」
「たまんないわねエ」
はる子は××○○会社の女事務員の中では古株で六七年勤めみんなから信用されていたのだ。
「はる子さんぐらいになったら、病気手当ぐらい貰えたっていいわね」
「そんなもん、会社が出すもんですか」
依田とよ子がいつもになくプリプリした口調でミサ子に云った。
「私が入社するとき、人事課の細谷が真先に『あなたの御両親は御健在ですか』ってきいたことよ。父はいませんて云ったら、何病で死なれましたかだって。……私が病気んでもなれば、そりゃ遺伝だって片づけられちゃうにきまってるわ」
「――何だったの? お父さん」
クリーム色の帯あげをしめなおしながら、サワ子が子供っぽく訊いた。
「船長だったのよ。南洋航路で船が沈没しちまったんです」
「アラ……。じゃそんなもの遺伝しやしないじゃないの」
「きまってるわ。だけどね、そんなことだって会社は口実にしようと思えばするってことなのよ」
洗面所の窓から、宏壮な××○○会社の建物の間にはさまれたコンクリートの内庭が見下せた。一台の真新しい赤塗りの重油運搬用トラックが真昼の日を浴びそこに来て止っている。無帽子の社員が三人ポケットへ手を突っこんで、一人の男が何か説明しているのを聞いている。
和田れい子が、窓から首をひっこめながら、
「はる子さん、ほんとうに気の毒ね。私女としてつくづく同情しちゃうワ。あのひと、とても無理してたからとうとうこんなことになっちゃったのよ」
「――旦那さんがあるんでしょう?」
「あるんだけど、今ルンペンなのよ。それが会社へしれるとまたうるさいし……それにね、はる子さんおなか[#「おなか」に傍点]があやしくなってたのよ」
洗面所にいた女事務員たちみんなが、れい子のこの話へ注意をひきつけられた。
「そうだったの!」
「まあ……しらなかったわ」
「でもね、旦那さんがそんなだし、会社じゃたださえ結婚してる女をよろこばないでしょ? 帰りをいそいだり、欠勤が多いって云ったり。――はる子さんが今身持んなって、それでクビんでもなったらとても暮しちゃいけないことになるもんだから、あのひと、煩悶してたわ。そりゃ……」
れい子は言葉を途切らしたがちょっと声をひくめて、
「……このごろ、いろんなことがあるようでもまだナカナカなのね。内緒だけれど、はる子さん、しくじったのよ。それでずっと工合がわるかったんですよ」
サワ子が、明るい圧えつけられたような空気の中でそっと溜息をついた。柳が沈黙をやぶった。
「医者にかかったんでしょう? でも」
「二十五円もとられたんですって……出血がとまらなかったのよ」
ミサ子は堪らない心持になって云った。
「実際ひどいもんだわ。働かすときには結婚していることなんか無視して働かしといて、いざ倒れたとなるとみんなおっかぶせちまうんだから」
れい子が、不安そうに片頬笑いをうかべて、
「私なんか、あやういもんだワ」
と云ったが、誰もそれを笑えなかった。
「だってあなたんところ勤めてるんでしょ」
「そりゃそうだけれど、いつどんなことになるかしれないじゃないの。……人間の体だもの」
「ねエ、バカにしてるわねえ」
サワ子が熱心に云った。
「何ぞって云うと女らしくしろ! 女らしくしろって会社じゃ云うくせ[#「くせ」に傍点]してねえ!」
この頃の不景気につれて、会社ばかりでなくいろんな工場でも、男より賃銀のやすい女をドシドシ使うようになって来た。しかも家持ちの、年数の古い女は、能率があがらないと云ってクビにする。その代りに小学を出たばっかりぐらいの若い娘を、モットやすい賃銀で雇って仕込む。
「私んとこの下の小母さんの親類でも、そういうわけで二人もクビんなったわ、ついこの頃」
柳の話をみんな黙ってきいていたが、れい子がしんみりと云った。
「――大きなビルディングの中にいるというだけで、私たちだって女工さんだって違いありゃしないのねえ。知識労働だなんていい気になってるだけ滑稽みたいなもんだわ」
ミサ子は××○○会社の女事務員たちの心持が一部ではあるがこんなに揃ってズーッと引緊ったのははじめてだと思った。
ぞろぞろ食堂の方へ行くと、地下室の階段を下から食事をすました益本があがって来ながら、ミサ子たちの一団を見ると、
「ダメよ! 今日は!」
と大きな声で云った。
「ゴボーに竹輪ブよ」
「どうする?」
「どうする?」
地下室の下り口で停滞してしまった。
「……われら[#「われら」に傍点]のレストラン[#「レストラン」に傍点]にしちゃおうカ」
「ね!」
××○○会社の食堂は一回二十銭ずつの食券だった。ところが賄は請負で、二十銭が勿体ないようなお菜《かず》のときがあった。女事務員たちは、そんなとき食券はとっといて「モーリ」で十銭の昼食をする。
九
ミサ子が帰ろうとしているところへ、柳がれい子とつれ立ってやって来た。
「いっしょに行かない?」
三人は連れだって、中央郵便局の建物の裏を銀座に向って歩いてった。
不図《ふと》思いついたように柳が、
「ねえ、あなたがたどう思う? 私、若しはる子さんがこれっきり退社するようなことになったら、ひとつみんなから慰問金をあつめてはる子さんにあげたらどうかと思うんだけれど……」
「そう出来たら、よろこぶわ、キット」
れい子がすぐ答えた。
「私たち、沖本に腹をたてたりはよくやってるけれど、これぞといってみんなで纏まったことってのは一つもやっていないから、慰問金をあつめるのなんかいいわね」
ミサ子は、黙ってれい子のわきについて歩いていたが内心意外な気がした。れい子は××○○会社の女事務員の中では至って地味で特色の
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